プチ小説「T.S.さんを偲んで」

2回目の槍・穂高登山でT.S.さんとお会いし同行したことは、私にとって貴重な経験になりました。その後の登山が充実したものになったのは、T.S.さんのお陰です。本当にありがとうございました。

槍・穂高登山の2年目(2004年)、私はようやく穂高に足を踏み入れた。1年目は初心者としては手強い氷河公園、天狗原を経由して1日目に南岳小屋に辿り着くことが出来た(当時は大阪からだと夜間急行ちくまという電車があって、松本駅に午前4時に到着して、松本電鉄、アルピコ交通バスを乗り継げば、朝食を取ってからでも午前6時30分に登山を開始することが可能だった)が、2日目に雨となり、初心者が大キレット、涸沢岳を経由して穂高岳山荘まで行くのは難しいと判断して下山した。それでも槍ヶ岳の頂上だけは登っておこうと、帰りは槍ヶ岳経由で、一旦槍ヶ岳山荘に荷物をおろして山頂に登ってから一気に上高地のバス停まで駆け下りた。2年目も氷河公園、天狗原経由で1日目に南岳小屋まで行き、2日目の朝が快晴だったので穂高岳山荘を目指して午前6時過ぎに小屋を出発した。大キレットの下りは高所の恐怖を感じるところはほとんどなかったが、北穂高岳へと登るところは飛騨泣き、長谷川ピークという難所があり、足がすくむことしばしばだった。それでも長谷川ピークを何とか通り過ぎてしゃがめる場所を見つけると、私はほっとしてしゃがみこんだ。その時、飛騨泣きのあたりから私の後ろを歩いていた男性が、私に声を掛けた。
「こんにちは、槍・穂高にはよく来られるんですか」
私はまさか大キレットの途上で声を掛けられるとは思わなかったので、最初は驚いて何も言えなかったが、きちんとした登山の装備をした紳士の好意に応えた。
「いえ、まだ2回目なんですよ。昨年来た時は、槍沢から氷河公園に行くルートに行ってしまい。南岳小屋に辿り着いたのですが、次の日が雨で下山しました。でも、雨中、槍ヶ岳山頂には登ったんですよ」
「へえ、まったく初めてで、天狗原の方から来られたんですか」
「本当にあそこは岩稜が細くて両側が絶壁なので...それにくらべたら、大キレットは大したことないなあと思ったのですが、長谷川ピークは本当に怖かった」
「ははは、そうでしょうね。大キレットはあそこが難所かな。でもこれから先、特に涸沢槍のあたりはぼくでも足がすくむところが多いかな」
「ぼくは高所は苦手で、それなりにトレーニングをして臨んでいるんですが、どうにもならないですね。氷河公園を歩いていると30メートルほど1メートル足らずの凍結した道があってその左手は500メートルほど雪に覆われた雪渓が谷へと急勾配で続いているんですから、震えながら歩きました」
「谷底まで落ちることはまずないですね。どこかできっと止まりますから。そこからまた登って行けばいい」
「そうですか、そう言われると恐怖感が少しなくなりました」
「そろそろ行きましょうか。怪しい雲が出て来たから昼から雨だな。天気予報でもそう言っていたし」
「歩きながら、話してもいいですか」
「ここから40分ほど急な上り坂ですが、どうぞ話を続けてください」
Sさんと私はリュックを背負うと、すぐに急坂を登り始めた。
「Sさんは、しばしば槍・穂高に来られるのですか」
「わたしは東京の多摩地区に住んでいるので、大阪に比べるとアクセスはいいんですよ。沢渡まで車で来て、そこからバスで上高地に出ます。それでも1シーズンに2回来ることはあまりないかな。でも今年は秋に涸沢の紅葉を見に来ようと思っています」
「他の山にも登られるのですか」
「わたしはサラリーマンですから、そんなにしばしば山には来られないんです。それで北アルプスは槍・穂高だけですね。あとはトレーニングのため、丹沢の沢登りかな」
「丹沢ですか」
「関西の人だから、知らないかな。わたしは多摩より、神奈川県内の丹沢大山の方に行くことが多いかな」
「この辺りまで来ると足元が地に着いた感じです。あれは山小屋かな」
「そうですね。テラスがあるからそこで休みましょう。その前に山頂に行っときましょう」
Sさんとわたしは北穂高小屋の際を通り過ぎて山頂まで行った。
「ここは見晴らしがいいから、記念撮影をするのがいいですよ。うーん、でもガスが出て来たな。さっきテラスで休むと言っていたけど、すぐに小屋に入らないといけないかもしれないな」
SさんはわたしにライカM6を返すと小屋の前に行き、テラスの空いた席に座った。
「普段なら、ここから、槍ヶ岳がよく見えるんですが...残念だな。ああ、雨が降り出した。小屋に入って、コーヒーでも飲みながらこれからどうするか考えましょう」
「ご一緒していいんですか」
Sさんとわたしは小屋に入るとコーヒーを注文した。
「恐らく、こんなに天気が急変したから、きっと雷雨となるでしょう。山では落雷は頻繁に起きます。一番安心なのはこの小屋に留まることですが、先に行かれるならいくつかルートがあります」
「雨具はあります。Sさんと一緒ならどこでも行きますよ」
「わかりました。まず一般的なのは涸沢槍、涸沢岳を経由して穂高岳山荘へと向かう道ですが、このルートは普段でも険しく初心者の方には勧められません。また尾根伝いに行きますから、落雷に遭う危険性が高まります」
「他のルートがあるのですか」
「穂高岳山荘まで行けば、ザイテングラートという下山しやすい登山道があるのですが、ここからだと南陵取付を経由して涸沢まで下山するしかないでしょう。少し険しいですが、どうされます」
「仮に北穂高小屋に一泊したとして、今来た道を引き返すのは難しいと思います。時計の針が反対に進むみたいで、感覚的におかしな具合です。あなたが今から涸沢に向かわれるのなら、ご一緒したいと思います」
Sさんとわたしが小屋を出て大雨の中、涸沢へと向かったのは午後1時頃だった。出て1時間ほどは雨だけで済んだが、やがて雷鳴が鳴り、向かい側の山に落雷があった。あまりのものすごい音に足がすくんだ。Sさんが、ちょっと岩陰で様子を見ましょうと言ったので、わたしは岩陰にしゃがんで様子を見ていたが、閃光が走ったかと思うと向かいの山にまた雷が落ちて、ものすごい耳をつんざくような音がした。わたしが心配そうな顔をすると、Sさんは、しばらくしたら鎖場があります。落雷が気になるかもしれませんが、しっかりと鎖を摑んで下りてください。もう半分は過ぎました。雨は続くでしょうが雷はじきにおさまりますよと言った。それから2時間ほど雨中足元に気を付けながら下山して行くと、山小屋が見えて来た。
「今、見えているのが、涸沢小屋で10分ほど行くと涸沢ヒュッテがあります。どちらに泊まりますか」
「もうこれ以上は歩きたくないです。涸沢小屋の方がいいです」
「それでは、涸沢小屋にしましょう。涸沢はテントで宿泊する人が多くて(貸し出しもしていますし)、わりとゆったり泊まれるんですよ」

翌朝、午前5時に起きると、Sさんがテラスからの眺めがよいので、見に行きませんかと言ったので、わたしはご一緒したが、奥穂高岳、前穂高岳、涸沢岳などが澄んだ空気の中で凛々しく際立って見えた。Sさんとわたしは朝食と食べて、午前7時に小屋を出発した。途中、木谷橋で休憩した。Sさんが、登山者が携帯する、簡易水筒(ただのビニール袋に見えるが)にそこに流れる水を入れて美味しそうに飲んだ。わたしが、山では湧き水以外は飲まない方がよいと言われていますが、大丈夫ですかと尋ねるとSさんは、ここらあたりは水がきれいだから問題ないと思いますよと笑顔で答えた。木谷橋を過ぎてしばらくするとSさんはわたしに話掛けた。
「ぼくは、徳沢でゆっくり風呂に入って帰ります。あそこには風呂があるんですよ。今からだと充分、上高地まで行けるから、あなたは松本まで出て、一泊するなり、今日帰るなりどちらでもできるでしょう。あっ、屏風岩が見えて来た。実はわたしの兄はクライマーで岩専門なんです。それでよく屏風岩の途中で綱一本でぶら下がり一晩を過ごしたりするんですよ。わたしはそこまで熱心じゃないかな」
「へえ、すごいなー。そうですね、ぼくは上高地まで下ります。横尾小屋の前にベンチがいくつかあるでしょう。そこで連絡先を教えてもらえないですか。槍・穂高で再会することはないと思いますが、年賀状を送りたいので」
「わかりました。わたしに会えなくても、槍・穂高にはまた来てください」
「ほんとにありがとうございました。お世話になりました」