プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生41」
新婚旅行の最後の日、午前7時過ぎに青森を発った二人は、 青函トンネルを潜って午前9時過ぎに函館に着いた。
駅近くの鮮魚市場をしばらく逍遥した後、すぐに函館山へと向かった。天気が快晴で乾燥していたので遠くまで
見渡せると思ったからだった。
「それにしてもここまで見晴らしがいいとは思わなかった。三大夜景と言われる夜の景色もいいかもしれないけれど、
両手に海を見ながら陸が続き、遠くには駒ヶ岳が見える昼の景色もすばらしいじゃないか」
「そうね。思いつくまま話してしまうけど、私たちの人生もこのような好天の中をすばらしい景色を見ながら歩いて
行けるといいわね」
「でも、すばらしい景色というのをすばらしい人や充実した仕事との出会いと考えると、少し考えておきたいことがある」
「なにかしら。難しい話だったら、今は...」
「なに、札幌に向かう特急の中で昼食の駅弁を食べるつもりだから、そんなに長く話すつもりはないさ。実は、
文化住宅で新婚生活を始めることに秋子さんに反対されて、よくよく考えたんだけれど、学生気分のまま新しい
生活を初めてはいけないと思ったんだ。秋子さんは思いやりのある人だから正面切っての反対はしなかったけれど、
どう考えても今のように好事家(ディレッタント)の生活をしていたんでは生活資金に行き詰まり、その結果、
人生計画に破綻が生じてしまうと思うんだ。で、まずしなければならないのは心を入れかえて仕事に励むことと
名曲喫茶通いと長時間の読書を止めること。そうして3人の子供の父親となり、生活が安定して来たらもう一度
文学、芸術の世界に帰って行こうかなと思うんだ」
「ふふ、よーくわかったわ」
開港間もない新千歳空港から、ふたりは東京行きのジャンボジェットに乗ったが、強行日程を何とかこなした小川は
秋子に断って、東京に着くまで眠ることを許してもらった。しばらくするとディケンズ先生が現れた。
「小川君は先のことを考えないで突っ走ってくれると確信していたんだが...。でも、まずは秋子さんとの生活を楽しむことが
今のところ一番大切かもしれない。私がこうして小川君の夢の中に出て来るのも、今読んでいる「エドウィン・ドルード
の謎」を小川君が読み終えるまでとしよう」
「ということは、もうすぐ先生とはお別れなんですか」
「心配しなくていいよ。あと8〜9年したら、私の「互いの友(我らが共通の友)」のふたつの翻訳が出される。どちらを
読んでも、必ず君の夢の中に出て来て...」
「よーし、それなら、先生が8、9年後に現れるまでは、秋子さんと僕たちの子供のために寝食を忘れて仕事に励むことにします」
「そうだね。それがいいよ」
※ 1988年を想定しています。