プチ小説「青少年の頃の旅の思い出」
几帳面でない福居は、たまに利用するスチール机の引き出しなど整理する機会はほとんどなかった。しかし年末になるとあちこち整理、掃除するついでにスチール机の引き出しの中を見る必要があった。中味を見ると学生時代に使っていた学習参考書が少しばかり、雑誌や新聞の切り抜きを閉じたファイルが数冊、週刊誌が10冊ほどが一番大きな引き出しに入っていた。その他の3つの引き出しにはそれこそいろんなものが入っていて、中学生の頃の生徒手帳、国鉄の切符、名勝地で購入した記念メダル、絵葉書、バッジなどが入っていた。福居はこれらの記念品を目にすると、当時のことが思い出されるのだった。
家はそれほど裕福ではなかったけど、年1回旅行する費用は両親が負担してくれた。条件があって、必ず日帰りで帰ることだった。当時、山陽新幹線が開業したばかりだったけど、特急電車を利用しないでもかなり遠くまで日帰りで旅行できた。一番最初に行ったのは、四国高松だった。なぜ高松なのと言われると、3つ理由があった。1.宇高連絡船に乗って四国に渡りたかった。2.琴平電鉄の電車に乗りたかった。3.屋島と栗林公園に行きたかったというもので、当時は讃岐うどんは有名ではなかった。当時は吹田に住んでいたが、快速電車で岡山まで行くのに今ほど苦労しなかった記憶がある。今は岡山まで行くのは新幹線でないと不便なようなダイヤになっているが、当時は網干あたりで一度乗り換えれば時間を掛けないで岡山に出ることができた。宇高連絡船への乗り継ぎをする宇野駅へも待ち時間はほとんどなく、連絡船で約1時間で高松まで行けたからとても便利だった(瀬戸大橋は坂出を経由するので、大回りになる)。昼食をとってから琴平電鉄を利用して、屋島と栗林公園を回ったことを覚えている。弟が同行したが、当時の写真は一枚も残っていない。引っ越しでどこかにやってしまったのだろう。翌年も弟と旅行したが、この時は近所の1歳年上の人も一緒だった。3人で代わる代わる写真を原爆ドームの前で撮ったのがあるが、どこを回ったのかはまったく覚えていない。おそらく一年上の人がいろいろ計画を立ててあちこち連れて行ってくれたのだろうが、自分で計画を立てなかったので記憶に残らなかったのだろう。
中学3年生の頃は受験勉強のため遠出は控えたが、国鉄の普通電車や快速電車であちこち出掛けた。奈良、和歌山、津(友人が引っ越していた)、神戸、彦根、大津とほとんどが駅で下りて、近辺をうろうろしただけだった(当時ガイドブックがなければ、観光地の情報は得られなかった)。それでもいつも乗らない電車に乗って遠くに出掛けることは、大きな楽しみになった。
2度目の遠出で、他の人の計画に従って観光地巡りをして何にも記憶に残らなかった苦い経験から、大学以降は自分で計画して旅行をすることにした。と言っても大学時代は旅行らしい旅行はしていない。2回生と3回生の間の春休みに東京に行ったが、これは思い出したくない旅行となった。もともと計画性がなく、資金もなく、宿泊は下宿や寮に泊めてもらうというやり方だったので、1泊させてもらった大学生の幼馴染みと東京で研修中の弟には迷惑を掛けてしまった。それでも幼馴染みは烏山駅近くの村さ来でお酒を振舞ってくれ、翌日は芦花公園駅近くのあんのんというお好み焼き屋でごちそうしてくれた。飲食店での歓待だけだったのは残念だったが、精一杯面倒を見てくれたと感謝している。その次の日は弟と吉祥寺駅で待ち合わせ、居酒屋で飲んだ後、弟の寮に泊まらせてもらったが、狭い部屋に兄が転がり込んで来たので大迷惑だったろうと思う。それでも遠慮なく睡眠を取ることが出来たことは有難かった。この初めての東京訪問で、どこを訪ねたのかははっきりと覚えていない。少ないお金で何か記憶に残ることを脳裏に刻んでおきたいと思ったのは覚えているが、わずかの資金でできることは限られていた。最初の日は、友人の下宿で大人しくしていた。トイレに行くくらいで、夕方から居酒屋に行ったことしか記憶に残っていない。2日目はあんのんを出た後、京王線で新宿に出て、関西で経験できないような満員電車(山手線)で大塚まで行った。そこから都電荒川線(この電車にとても乗りたかった)に乗り早稲田まで出て、神楽坂を経由して飯田橋に出たことは覚えているが、その後吉祥寺に行くまで何をしていたかは覚えていない。3日目は満員電車が怖くなって、文化施設で時間をつぶそうと思い、確か午前中は近くにあった文学館(アイボリー色の2階建ての文学館だった)で2時間ほど過ごした後、上野の東京国立博物館と国立西洋美術館を見て回り、夜行の各駅停車で帰阪したと記憶している。この時の教訓は、貧乏旅行はほどほどにしないと旅行を台無しにしてしまうだけでなく、人に迷惑を掛けてしまうということ。頼られた人の貴重な時間を奪ってしまうので、旅行は資金を確保してきちんとした計画を立て、迷惑を掛けないで一人旅をするのが一番いいと気付いたのだった。