プチ小説「登山者7」

山川は夏山登山しかしなかったので、シーズンは5月から10月だった。今年も5月に2回軽装備で山
(主に比良山系)に行き、6月から梅雨明けまでは休日は朝に雨が降っていなければ出掛けていた。
徐々に装備を増やして行き、本番(山川は、梅雨明け後10日から1ヶ月以内に槍・穂高に登り縦走
することを毎年の目標にしていた)の1ヶ月前には本番と同じ重さのリュックで登るようにし、少なく
とも4回は本番までにそのリュックで登っていた。
今日、山川は湖西線の比良駅で下りていつものように湖西線の高架を近江高島方面に歩き、50メートルほど
行ったところで左手に折れ山へと向かった。そこを右に折れて、100メートル余り真っ直ぐ行くと
比良の遊泳場があった。山川は一度も行ったことはなかったが、梅雨明けから盆過ぎまで若い女性が
ゆったりとした夏の衣裳を着て遊泳場に向かうのをいつも羨ましく思って見ていた。
<今日も電車の中で若い娘同士が小麦色の肌を見せて楽しそうに話していた。俺ももう少し若かったら...。
 でも、ここのところ雨続きで登っていないから、今日は行っとかないと。そうさ、足がつったり
 息があがったりしたんでは、槍・穂高登山を充分に楽しめなくなる>

イン谷口まで来て比良山系を見渡すと黒い雲が少しかかっていたが、山川が今歩いて来た道には強い
陽射しが照りつけ少し陽炎があがっているように見えた。
<途中で雨が降って来ても、今日は8時間余りの全行程を歩くぞ。途中でやめて、遊泳場に行ったりは
 しないぞ>

青ガレを過ぎて、金糞峠までの中間点の沢(少し青ガレ寄りだが)を渡っている時に山川は独り言を
言った。
「ここらあたりで、ジェット機が通過するようなゴーッという音がする時はいつも武奈ヶ岳山頂の
 辺りで雨が降り出すが、今日は心配ないようだ」

武奈ヶ岳山頂近くで山川は昼食を取ったが、山頂までやってくる人のほとんどが中高年の男女か若い
男性だった。
<こんな暑い日に登山をしようと考える人は本当に山が好きなんだろうな。でも、今日は季節外れの
 うぐいすのさえずりが聞けたし、この時期しか味わえないような、落下する川の水の近くで冷たく
 気持ちがよい大気が身体を覆うのを感じた。もしかしたら、登山の楽しみというのはこうした
 ささやかな喜びを五感で感じることなのかもしれない。そのためには、高温で身体が渇いてしまう
 ことを嫌がらず、静寂を恐れないで森の奥に入って行くことが必要なんだろうな>

山川は午後4時前に比良駅へと戻った。まだ30度台の熱さであったためか、そこには遊泳場から
戻って来るはずの若い女性の姿はなく、登山を終えて思い思いに帰りの支度をしている中高年の男女
ばかりだった。