プチ小説「父親の七回忌に」(これは小説ではありません)

父親が亡くなって、もう6年が経過しました。私も定年を挟んで63才となりました。思い起こせば、父親のかかりつけ医からレントゲンで見ると腎臓に黒い影があるから大学病院に行きなさいと言われたのが、2014年の9月でした。それまで私は仕事を続けながら趣味(語学通信教育、西洋文学読書、クラシック音楽鑑賞、槍・穂高登山、小説出版など)を楽しんでいましたが、大学病院の医師から腎臓がんの状態が深刻であると説明を受けて父親に寄り添い定期的に大学病院に通うようになりました。RI、心機能などの検査を受けてその年の年末に摘出手術を受けることになりましたが、直前になって手術は勧められないと医師から言われたこともありまたステージ4で肺転移しているということもありということで完治はできないだろうと思いました。それでも手術が無事終わり、手術後、経過を見て抗がん剤治療を始めることになりました。抗がん剤治療が5月に始まりましたが、手術後も父親はカラオケを楽しんでいたので抗がん剤治療を続けながら余生を楽しむと思われましたが、抗がん剤が合わなかったためか大学病院を退院して近所の病院に転院する頃にはコミュニケーションが難しくなりました。やがて自宅に帰ってきましたが、同居する母親との会話もなくなり、この頃から私も父親の世話のために頻繁に両親の家に行くようになりました(この年の3月に私は両親の家の隣に引っ越しました)。それまで介護者の手助けは必要ありませんでしたが、この頃からヘルパーさんの介護が必要になり週に2、3度助けていただくことになりました。7月には大学病院を予約受診しましたが、父親とのコミュニケーションがほとんどできなくなり抗がん剤治療を続けることは難しいと考えた私は、これ以上状況が悪くなるのは避けたいと考えて抗がん剤治療はしないと主治医に伝えました。主治医は抗がん剤治療を続けないのなら、大学病院での治療は続けられない、自宅近くの病院で治療を受けてくださいと言われました。それから2回の近所の病院での入院を経て翌年の4月にも同じ病院に入院しましたが、その頃には父親とのコミュニケーションはまったくできなくなっていました。そうして4月23日に父親は天国に旅立ったのでしたが、抗がん剤治療を受けなかったらきっと激痛が伴ったと思われますし、本人はほとんど苦しむことなく(しばしは苦痛で顔を歪めるのは見ましたが、「痛い」という言葉を私は耳にしませんでした)逝ったのは、日頃から苦しまずに死にたいと言っていた父親の願いを神様が叶えて下さったのだと思います。
腎臓がんの告知があってから手術を受けるまでは何度か外来受診のために父親に付き添って大学病院に行きましたが、それがとても良かった。30代後半から父親と一緒に過ごすことがなくなったのでしたが、貴重な時間を与えられたのだと思います(それまではよく自宅で一緒にお酒を飲みました)。父親は、カラオケが趣味で若い頃にNHKのど自慢で鐘を3つ鳴らしたことを自慢していたので、その曲の題名を訊いたり一緒にカラオケ店に行っていれは父親を喜ばせることができたのかなと思いますが、後悔先に立たずと言ったところでしょうか。
3回忌の時も2年があっという間に過ぎましたが、その後の4年もあっという間に過ぎました。法要でお経を読んでいただいたお坊さんの話では(一般的な話ですが)、次は13回忌、17回忌そして23回忌があって、25回忌がありますが、25回忌(以降)の法要はあまり営まれないようです。23回忌の頃には私は80代になるのですが、その頃まではコロナ禍が収まり趣味を満喫したいと思いますが、どんなものなんでしょうか。父親がいたら、お父ちゃんもそのように祈ってね。いい報告がしたいからと頼んだことでしょう。