プチ小説「ある大指揮者との対話」

京都の大学に通う石井はまだ入学して2ヶ月足らずで先の予定は日々変わったが、7月に京響の巡回コンサートに行くことだけは変えなかった。
<だって、大指揮者が京都市交響楽団を指揮する。しかも曲目が、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲と交響曲第40番を指揮するんだから。貧乏学生にはクラシック音楽の生演奏を聴く機会がほとんどない。それが聴けるというだけでも有難いのに、よく知られた曲を大指揮者が演奏するんだから>
彼は大阪府内から通学していて夜の7時から始まり午後8時に終わるこの催しは帰宅が10時を過ぎるのだが、そんなことも気にならなかった。
<だって、この有名な指揮者が京都市で指揮棒を振ることはめったにないだろう。モーツァルトの交響曲第40番はぼくの大好きな曲だし>
京都市内の告知板に掲載されて1か月後に石井が待ち望んだ巡回コンサートがあったが、石井はその日午後5時30分に大学を出て、会場に向かった。
会場は小学校の体育館で、石井が到着した開始30分前には50名ばかりの人がステージの近くに陣取っていたが、石井はその人たちのうしろにある椅子に腰掛けた。
定刻に司会者から指揮者の紹介があり、コンサートは始まった。石井はもっぱら自宅にあるラジカセでクラシック音楽を聞いていたので、ひとつひとつの楽器の音が近くで奏でられ、石井の耳に生の楽器の音が届いたのは新鮮な経験だった。
<ぼくは今までオーケストラ演奏のクラシック音楽を聴くことがなかったけど、これほど素晴らしいものとは思わなかったな。素晴らしい演奏のお礼も言いたいし、これからもクラシック音楽を愛聴することを指揮者の先生に誓うのもいいのかもしれない>
石井はそう思うと、余韻が残るコンサート会場の体育館を出て指揮者が廊下を歩いているところに近づいて行った。
石井が少し強張った笑顔で、素晴らしい音楽を有難うございましたというと指揮者は石井を見て、有難うと応えた。

「ぼくはまだクラシック音楽の初心者で、オーケストラの生演奏は初めてなんです」
「そうか、楽しんでもらえましたか」
「モーツァルトのよく知られている曲を演奏していただけたのが、有難かったです」
「そうだね、クラシックファンならよく知っている曲だからね。こういうコンサートの目的は心地よい曲を来場した方々に楽しんでもらって、クラシック音楽の観客の裾野を広げていくということもあるからね」
「こういう催しがしばしばあると嬉しいのですが」
「きっと君は無料でクラシック音楽の楽しいコンサートが楽しめればと思っているのだろう。でもそれはとても難しいことなんだ」
「ぼくにとってはとても有難いのですが」
「経営だとか、運営とか言っても君には理解してもらえないだろうけど、例えば無料コンサートでは会場費、楽団メンバーの費用(当時会場に来てすぐに演奏ができるわけではないから何度か練習もしなければならない)、会場を運営管理するための費用が必要なんだ。無料コンサートは月例コンサートや他の市町村で開催するコンサートのための宣伝と考えてもらえると開催する側としては有難い」
「そうなんですね。コンサートが素晴らしいから、また無料コンサートを見に来ようというのではなく。今度は面白そうな内容のコンサートがあれば、お金を払って見に行こうという風にならないといけないんですね」
「それはその人の考え方次第だし、経済的事情もあるから、われわれがとやかく言えるものではない。でも裾野と言えばもうひとつ思いつくことがあるだろう」
「自分で演奏するということですね」
「そうさ、楽器の生の音を聴いて、自分で演奏してみたくなり、中学校や高校の音楽系のクラブに所属する。これもぼくたちの望んでいることなんだ」
「そうなんですね、でもぼくは音痴だしリズム感がないから楽器の演奏はできないんです」
「でもクラシック音楽が好きなら、音楽に携わる方法はいくらでもあるし、楽器が出来なくても会場を借りてクラシックを楽しんでもらうことはできるだろう。具体的な方法は自分で考えてほしいけど」
「わかりました。今日のこの幸せなひと時は一生忘れません。本当にありがとうございました」
「ちょっと大袈裟だと思うけど、君の気持ちを大切にして頑張ってくれとエールを送ることにするよ」

石井が頭を下げて小学校の校門に向かう途中で振り返ると、大指揮者が手を振っていた。石井は大きな声で、ぼくも微力ですがこのすばらしいクラシック音楽を少しでも多くの人に楽しんでもらえるように頑張ります。絶対にと応えた。