プチ小説「願い事は暗い空があるところで」
たろうの家族は八ヶ岳登山のため、赤岳鉱泉で宿を取った。中学生のたろうは家族と何回か旅行したことはあったが、相部屋は初めてだった。父親は、山小屋では相部屋は避けられない、少々の居心地悪さは我慢しなけりゃいけないよと言っていた。たろうは消灯まで「チロの天文シリーズ 天体望遠鏡ガイド」のページをめくっていたが、消灯になると家族が横になったのでたろうもそれに倣った。しばらくすると同室の人が鼾をかきはじめた。今まで聞いたことがないような騒音だったので、たろうは我慢できなくなって外に出た。暫くは玄関前で近くの様子を見ていたが、ふと目を上にやると満天の星空があった。しばらくたろうは玄関で空を仰いでいたが、ぎっしり大小様々(光度が様々)の星の間を縫うように流れ星が流れた。たろうは、これなら願い事が天に伝えられるかもしれないと思って何度か試みたが、流れ星は数秒で姿を消したのでたろうの願いを伝えることは叶わなかった。たろうはがっかりして宿に入ろうとしたが、ふと横を見ると暗がりで望遠鏡を見ている30代くらいの男性がいるのに気付いた。その男性がやあと声を掛けて来たので、たろうはこんばんはと挨拶した。
「なかなか眠れないのかな。ゆっくり涼んでいくといい」
最初、たろうは見知らぬ人から声を掛けられて戸惑ったが、望遠鏡のことが気になって話を継いだ。
「同部屋の人の鼾が気になって。平気で眠られるのか不思議です」
「それは君が繊細だからじゃないのかな。ここまで登って来たから疲れているんだろ」
「そうなんですが...ちょっときいていいですか」
「いいよ、言ってごらん」
「さっきまでぼくは望遠鏡の本を読んでいたんですが、その望遠鏡はシュミット・カセグレン望遠鏡ですよね」
「ははは、せいかーいだよ。君は天文ファンなのかい」
「いいえ、たださっき見ていた本が望遠鏡の本だっただけです。最近あった月食を見て、望遠鏡で見てみたいと思ったんです。それからクレーターも見たいな」
「クレーターを見るくらいなら、口径60ミリくらいの屈折望遠鏡がいいんじゃないかな。扱いやすいし、何より安いからね」
「反射望遠鏡はどうですか」
「反射鏡が星を映し出す心臓部だから、例えば200ミリくらいの口径が欲しい場合には手が届く値段なので購入する人が多いけど、扱いがとても難しいから初心者には勧められない」
「シュミット・カセグレン望遠鏡はどうですか」
「以前、新星の発見のためにこの望遠鏡を活用している女性を紹介しているのを「天文ガイド」で見たことがある。とにかくコンパクトで観測には便利だけれど、写真撮影には向いていない。観測できればそれで満足というのなら買ったらと勧めるけれど、やっぱりきれいな天の川やアンドロメダ星雲や土星の写真を撮りたいという天文愛好家には勧められない」
「でも、シュミット・カセグレンですね」
「この望遠鏡は望遠鏡の扱いに習熟していなければ使えない。それに重量もある。軽量のものもあるけれど、やっぱりしっかりした性能のものをしっかりした三脚に取り付けて観測してみたい」
「そうなるとここまで持ってくるのは大変ですね」
「そうたとえば君が大人になっても天文に対する興味が衰えないとして、アメリカに移住することになったとしよう。アパラチア山脈の麓の村で暮らすことになったとしたら、この望遠鏡は離れられない友人となる可能性がある。要はあまり移動せずに暗い、いや暗黒の背景の星空が手に入るなら強い味方になる」
「他の問題はありませんか」
「何を観測するか。焦点を絞らないと膨大な費用がかかってしまう。近くにある月を観測するのか、火星、木星、土星などの惑星を観測するのか、新星・超新星や星雲・星団をを観測するのかによって、接眼レンズを変えなければならないんだ」
「ズームレンズはないんですか」
「うーん、それは残念ながらない。それにその接眼レンズがとても高価なんだ」
「そうなると天体観測も大変ですね。今日は収穫がありそうですか」
「天気がいいから一晩じゅう起きて観測するつもりさ。特にターゲットはない。君は明日赤岳に登るんだろ。早く寝た方がいい」
「そうですね。ぼく、たろうと言います。また天体のこと教えてください」
「八ヶ岳は暗黒の背景が手に入るからしばしば観測に来るだろう。たろうくんを見掛けたら声を掛けるよ」
「それじゃあ、これからもよろしくお願いします」