プチ小説「名曲喫茶ムジークでの会話」
福居は京都にある立命館大学法学部を1985年に卒業したが、その翌年に出来た名曲喫茶ムジークに今まで行ったことがなかった。
福居は立命館大学に入る前に浪人時代があり苦労して入学したのだったが、浪人していた頃から自分を勇気づけてくれるクラシック音楽の熱烈なファンになっていた。最初はFM放送でクラシック音楽を聴いていたが、やがてレコード、カセットテープを購入するようになった。福居はCDが主流になってからもアナログレコードばかりを購入していたが、やがてプレミアム盤の存在を知り高額なレコードを中古レコード店で購入するようになった。よく訪れた関西の中古レコード店は、京都のラ・ヴォーチェ、神戸のらるご、大阪キタの名曲堂、スマイルレコード、ストレイトレコーズなどだった。1990年代に入るとアナログレコードの新譜がほとんど出なくなったのでやむなくCDプレーヤーを購入したが、CDの音には馴染めなかった。1994年になると高級オーディオ装置でアナログレコードを聴きたくなり、日本のあちこちのよい音でアナログレコードが聴ける喫茶店(と言っても東京がほとんどで、当時、福居はジャズも聴いていたのでジャズ喫茶にも行った)に行くようになった。その主な喫茶店を北から言うと、一ノ関のジャズ喫茶ベイシー、渋谷の名曲喫茶ライオン、中野の名曲喫茶クラシック、阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロン、吉祥寺のジャズ喫茶メグ、京都出町柳の名曲喫茶柳月堂だった。ベイシーとクラシックは一度きりで、メグは3回行ったが、今でもしばしば利用するのは、ライオン、ヴィオロン、柳月堂だった。全国の名曲喫茶を訪ねてみたいと思った福居はインターネットが普及し始めた頃に、京都 名曲喫茶で検索してみたが、それまで聞いたことがなかった衣笠の名曲喫茶ムジークがヒットした。自分が卒業した大学の近くに自分が卒業した翌年に名曲喫茶ができていたというのは目から鱗が落ちる想いだったが、鱗となっていたのは京都の文化的な商業施設は河原町周辺という偏見があったからだろう。それからしばしば福居は名曲喫茶ムジークを訪ねてみたいと考えたが、平日の午後1時から6時の営業で京都市北区にある名曲喫茶の訪問は敷居が高かった。午前中に営業されているのならそこに昼過ぎまでいてお昼から河原町に行くことが出来るんだが、午後1時からそこに行って3時ごろまでいたらその後どうすればいいんだろう。そう考えて今までは行くのを躊躇していた。しかしある日ふと懸賞小説を書くことを思い立って資料探しを兼ねて母校の図書館を訪ねたところ、ライブラリーカードを持った交友(卒業生)なら一部を除いて図書館を自由に使えるし学食も利用してよいと言われたので、大学図書館を利用した後に名曲喫茶ムジークに立ち寄ることにしたのだった。午前中は母校の図書館を利用し西側広場で校内で販売されているハンバーグ弁当を食べた後に、福居はムジークに向かった。店内に入るとお客さんは3人で男性が2人と女性が1人だった。一人の男性がマスターらしき人と話をしていたが、福居は一番奥まったところに腰掛けて、掛っている曲に耳を傾けた。
<モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番だけど、誰が演奏しているんだろう。スピーカーはタンノイ、アンプとCDプレーヤーはラックスマンのようだな>
曲が終わるとマスターはレコードを取り出して来て、女性の客に声を掛けた。
「今から、1949年のホロヴィッツのライヴ録音をお聞かせします。ショパンのノクターン2曲です。アナログレコードなのでいい音ですよ」
その演奏は力強いものだったが、福居は繊細なショパンが好きなので曲が終わった後でマスターに持ち込みのCDを掛けてもらえますかと尋ねた。マスターが了解したので、福居は、フランソワのショパンのノクターン集のSACDを渡しながら、最初の3曲だけでもいいですから、よろしくお願いしますと言った。
それからしばらくはマスターもお客さんも、すばらしい音だな―と言っていたが、3曲目になるとマスターが福居に話し掛けた。
「お客さんは、こういうプレミアムCDを集めているの」
「いいえ、ぼくは専らアナログレコードです。浪人時代からだからもう40年以上になります」
「SPなんかも集めているの」
「一時凝りましたね。でも再生装置の電蓄(音聴箱(おとぎばこ))が壊れてからはあまり聞いていません。東京神田の富士レコード社や大阪太融寺ストレイトレコーズでよく購入しました。ああその前は神戸のらるごによく行きました」
「そうですか、Sさんは2回ほどうちに来られたかな」
「そうですか、らるごではLPレコードをよく購入しましたね。それからたまに開催されるSPレコードの鑑賞会に参加させてもらいました。クレデンザ(ビクター社製大型蓄音機)が置かれてあってスピーカーから流れ出る音はノイズがなくて生々しい音でした」
「そういう会によく参加されたのですか」
「いいえ、どちらかと言うと開催する方ですね。実はぼくはアナログレコードのコレクターで、東京の名曲喫茶ヴィオロンでレコードコンサートを開催していて、71回になります。最近はコロナ禍で出来ていませんが」
「そう言えば、ヴィオロンにもクレデンザがありましたね」
ショパンのCDが終わってから、福居はマスターに別のCDも掛けてほしいと依頼した。
「ぼくは50才になってからクラリネットを習い始めたのですが、クラリネットと言う楽器に興味を持ち始めたのがこのシューベルトの八重奏曲、オクテットなんです。このCDはリーダーがクラリネット奏者でなくて、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルがしているのでちょっと変わった感じです。ヴァイオリンの素晴らしい演奏が堪能できますので、第4楽章だけ掛けてください」
「クレーメルなら、2回コンサートに行きましたよ」
マスターが、素晴らしい演奏でしたねと言ってCDを返してくれたので、福居は嬉しくなって来週また来ますと言った。
「いつでも、大歓迎です。開店している時間が限られますが」
「そうだ、ひとつ訊くのを忘れていたことがあります。西陣織の染色に携わっている方でらるごの鑑賞会に参加していた方がいるのですが、確かNさんと言われていたと思うのですが...」
「Nさんなら、毎週火曜日にうちに来られます。来られるといつも賑やかですよ」
「そうですか、火曜日は仕事だから来られませんが、福居が来ていたと言っていただけたら、思い出されるかもしれません。そうだ、Nさんには、ウラニアのエロイカをお借りしたので、そのことを言っていただくと話が早いかもしれません」
店主が笑顔で、伝言承知しましたと言われたので、福居は一礼して店を後にした。