プチ小説「こんにちは、N先生26」

私は最近毎週水曜日に母校立命館大学の平井嘉一郎記念図書館に行くのですが、今日は京都市の最高気温が35度以上(参考:7月1日大阪市の最高気温38.4度)ということで熱中症にかからないか心配でしたが、いつものように午前6時30分に家を出ました。朝のうちだったら30度を超えることはまずないだろうし、二進も三進も行かないほどの暑さなら市バスに乗ればいいと考えたのでした。その日の私は朝からお腹の調子が悪くて、西院駅に着くとすぐにトイレの個室を利用したのでした。これでは途中催したらやばいな、今日はバスで行こうと思って個室のドアを明けたら、N先生が壁に向かって立っておられました。私が手を洗っているとN先生も手を洗いに来られ、やー、おはようと声を掛けられました。N先生が私の母校の図書館通いを知っておられるので西院駅のトイレでN先生と出くわすことは素直に受け入れられましたが、N先生が駅を出る時に大きな傘を広げられたのには度肝を抜かれました。
「先生、いくらなんでも大きすぎやしませんか」
「私はこれで君の分の日よけもしようと思うんだ。UVカットの機能もあるんだよ」
「でも日傘というのは女性のものではないんですか」
「いやいや、私の知り合いの男性の多くも利用しているよ。以前シンクロナイズドスイミングが女性だけのものだったが、今はアーティスティックスイミングと名を変えて男性にも門戸を開放したんだから、固いことを言わずに君もド派手な日傘を利用するといい」
私はなぜ男性用日傘とシンクロナイズドスイミングの男性への門戸開放が関係あるのかわかりませんでしたが、細かいことを言って先生の気分を害するよりもそうですねと相槌を打つのがいいと思いました。
「ところで君はお腹の調子がいまいちのようだが、炎天下の中、私と一緒に大学まで歩けばきっとお腹の調子も元に戻るだろうから、バスを利用しないで歩かないか」
「もちろん、先生と話すのは有難いことだと思っていますが、相合傘はちょっと」
すると先生は、わかった、じゃあ、こうしようと言って、傘をたたまれて鞄の中からチューリップハットを取り出しそれを被りました。
「ところで最近はどんな本を読んだのかな」
「そうですね、ディケンズの長編小説は、3、4回読んだものばかりですし、特に『大いなる遺産』は佐々木徹訳2回、加賀山卓朗訳1回、日高八郎訳2回、山西英一訳4回、石塚裕子訳1回と合計10回読んでいますから、当分は読まないと思います。それで他の作家の作品を読もうと思いました」
「どんな作品かな」
「今、読もうと思っているのは、モームの『人間の絆』、『月と6ペンス』、トルストイ『戦争と平和』、デュマ『ダルタニャン物語』なんかですが、『戦争と平和』と『ダルタニャン物語』は今から15年ほど前に一度読んだだけなので、その時と同様にはらはらわくわくしながら楽しめると思います」
「直近ではどうなの」
「最近読了したのは、モームの『剃刀の刃』でしたが、3人の性的魅力のある女性(イザベル・グレイ、スザンヌ・ルーヴィエ、ソフィ・マクドナルド)が華やかにいろいろな男性との交際をしますが、やはりソフィにラリーを奪われそうになった時のイザベルの奸計というのが印象に残ります。以前2回読んだ時は、ラリーがインドの山奥で修行をしていた時に輪廻を確認させる映像が蝋燭の縁に浮かんだというのだけが印象に残ったのですが、今回はいろいろな問題を含んだ恋愛模様が印象に残りました」
「そうか、今回は『剃刀の刃』を掘り下げて読んだんだね」
いつの間にか私たちは円町の信号を渡って、北野中学校の前を歩いていました。
「今、何を読んでいるのかな」
「私を長編小説の世界に導いてくれた、デュマの『モンテ・クリスト伯』を読んでいます。今から25年ほど前にこの本を読んで、長編小説の虜になりたくさんの長編小説を読んだのですか、まだ再読したことがありませんでした。エドモン・ダンテスのバイタリティーに溢れたけっして挫けない生き方は、その後の私の行動指針になったのです」
「大きな影響を与えてくれた小説を読み返すというのは心躍ることだろう。どこまで読んだの」
「主人公ダンテスにはメルセデスという恋人がいて、一等運転士(航海士)としての航海を終えたダンテスは祝言を上げることになりました。父親、船主などはわずか19才で頭脳明晰で活動的な若者に大きな期待をするのですが、ダンテスに対して悪意を持つ3人の人物がいました。同僚でダンテスが自分の昇進の邪魔をしていると考えているダングラール、メルセデスの幼馴染みで自分の恋人を奪ったとダンテスを恨んでいるフェルナン、ダングラールの友人のカドルゥスです。その3人が集まり、ダンテスを陥れようと計画を立てて結婚式の日を前に謀略を敢行します。ダングラールはフェルナンをそそのかし、告訴状を検事に提出させます。告訴状の内容は、ダンテスがエルバ島に立ち寄りナポレオン党の信書を手渡した。是非拘束して取り調べをしてくださいというものでした。(ダンテスは船長の命令でナポレオンが幽閉されているエルバ島に一日半滞在しました。船長は航海中に死亡しました)ここで少し話は変わりますが、若い将来を期待された検事ヴィルフォールがいましたが、彼は王党派、父親はナポレオン派ということで仲が悪く、父親がナポレオン派であることは出世の妨げになるだけでなく身の危険となると思っていました。そこにダンテスの取り調べの依頼が入るのですが、証拠書類として信書が提出され、その宛先が彼の父親のノワルティエ氏になっていたので、ヴィルフォールは放っておくと彼の将来に暗雲をもたらすと考えました。それでヴィルフォールは信書を焼き捨てて証拠を隠滅しダンテスの口止めをするために絶海の孤島の牢獄に幽閉することにします。簡単に言うとダングラールが考えた悪事をフェルナンが実行し、後ろめたいところのあるヴィルフォールがダンテスの口をふさぐために脱獄不可能な牢獄へと送ったのです」
「で、ダンテスはどうなったの」
「ルイ18世が復位して1年経って、刑務検察官の巡視が行われました。その時にはダンテスが監獄に入れられて17ヶ月経過していました。この時にダンテスと同様に無実のファリャ司教も尋問を受けます」
「この後、二人が出会って物語が動き始めるんだったね」
「そうですね、このファリャ司祭とのやり取りにはどことなくユーモラスなところもあって、暗雲の中から階が射してきた感じだったと記憶しているのですが、まだ、崩れた土や石の塊がどかどかと落ち込んで、ほとんど深さもわからない穴の底から、頭、肩、やがて人間の姿全体があらわれただけですから、今後どのようになるのか楽しみです」
「そうか、それならまた頃合いを見て現れるとしよう」
そう言って、先生とは北野白梅町の交差点で別れたのでした。



関係ありませんが、新京阪橋の改修工事が2022年6月30日で終わりました。