プチ小説「こんにちは、N先生 27」

私は最近毎週水曜日に母校立命館大学の平井嘉一郎記念図書館に行くのですが、いつも同じ経路で歩いています。西院駅を出て西大路通を大将軍まで歩き左折します。2つ目の大きな交差点を右折して北に歩き、等持院道のバス停のある通りを経て馬代通りを北上して嵐電の踏切を渡ります。そこから50メートルほど北上して、右側に行くと洛星高校の正門があり左側に行くと立命館大学があります。左折してしばらく行くと公園があるのですが、その前を歩いていると公園にある砂場の方から、おーいという声が聞こえてきました。私はどこかで聞いたことがある声だなと思って公園に入り、砂場の前まで行きました。するとたちまち砂場の砂が崩れ始めました。そうして崩れた土や石の塊がどかどかと落ち込んで、ほとんど深さもわからない穴の底から、頭、肩、やがて人間の姿全体があらわれたのでした。よく見ると、それはN先生でした。先生は、千鳥格子の背広とズボンに着いた土を払いながら話し始めました。
「なかなか、君が来ないんで寝てしまいそうだったよ」
「そうですか、それにしても私がここを通ったことがよくわかりましたね」
「君はいつも同じくらいの速さで歩く、だから君が西院駅でトイレで個室を使うか使わないかだけが問題なんだ。前回、お腹をこわしたと言っていたから、今日は気を付けてお腹をこわさないようにするだろう。そうするとこの前を通る時間が大体わかるから、その頃に、おーいと何回か声を出せばいいことになる」
「でも、土に埋もれて声を出すのは大変でしょう」
「ぼくはこう見えても遠泳は得意なんだ。『モンテ・クリスト伯』の主人公エドモン・ダンテスは4里を軽く泳ぐようだが、ぼくも潜りには自信があるのさ。だから、こんなことはお茶の子さいさいだよ」
私は砂場で砂を被って、おーいと叫ぶことと4里の遠泳がどう関係するのかわかりませんでしたが、何も言いませんでした。
「ところで君は最近、『モンテ・クリスト伯」を読んでいるようだが、ダンテスはようやく絶海の孤島の牢獄から脱出できたようだね」
「そうですね、でも、ぼくは、ダンテスの脱出よりも、ダンテスとファリャ司祭との交流のところを興味を持って読みました」
「ファリャ司祭も無実の罪でダンテスと同じ牢獄に入れられたわけだが、司祭と船乗りダンテスとの共通の話題があったのかな」
「それはわかりませんが、ダンテスは牢獄に入れられて4年してこの司祭に会うことができたのです。それまで孤独に耐えて生きて来たダンテスは穏やかな性格の司祭に会えたのは幸いでした。人間らしさを取り戻せたようです。しかもこの司祭はもともと多くの人を教えていた人なので、数学的思考ができるダンテスは多くの学問を司祭から習って身につけて行きました。司祭は語学も堪能でダンテスもいくつかの外国語が自由に話せるようになりました」
「ファリャ司祭はひとりで何人もの大学教授の教養を身につけていた。それをすべてダンテスに教授したんだね」
「そうです、このことはぼくが不遇だった頃に大きな慰めになりました。いつかそういう人に出会えるんではないかと思いました。ダンテスは結局、14年間拘束されたのですが、ファリャ司祭に会ってからはあっという間に時間が過ぎたことでしょう。この上ない人格、知識量の先生から思う存分知識を得られたのですから、きっと幸福だったでしょう」
「それからこの司祭はもうひとつダンテスに幸福を齎せてくれた」
「モンテ・クリスト島に隠された宝物のことですね」
「君はさっきようやくダンテスが牢獄から脱出したところを読んだと言っていた。宝物のことはまだ完全に理解しているわけではないから、次回の話題としよう」
そう言って、N先生がまたファリャ司祭の真似をしようとしたので、砂場に板を渡したのでした。