プチ小説「たこちゃんの両親」

ペアレンツ パドレス エルテルン というのは両親のことだけど、ぼくの親は6年前に父親が他界したので、現在は母親だけになっている。両親は旅行好きで、ぼくが浪人生になるまでは3人の子供と共によく旅行に行ったものだった。そうして父親が国鉄退職して子供がそれぞれ仕事を持つようになると父と母ふたりだけでパックツアーで全国に旅行するようになったのだった。もちろん年金だけでは旅行費を工面できないから、父親はいろんな仕事をして一所懸命稼いでいた。残念だったのはその旅行の記録がシャープのビデオで撮影したもので、お金を掛ければテープを再現(DVDに変換)できるのだろうが、多分10本以上ある貴重な記録は再生不可能な状態になっている。しかしわずかながらも写真は撮っていたので、それは見ることができる。母親が70才になる頃までの15年ほど両親はふたりであちこち出掛けたが、母親は70才を超えるとそれまで我慢していた腰、下肢の痛みを訴えるようになり、旅行に行くことができなくなった。そうすると父親はひとりでできる安価な趣味を探すことが必要になり、近くのカラオケ喫茶で飲みながら歌うことが毎日の楽しみとなった。そうしたふたりの絆となったのが、2人の孫だった。2人の女の子の下の子はソフトボールで活躍していたのでそれから7、8年は両親の大きな楽しみとなったが、上の子が結婚して、下の子も普通の就職をすると孫とのやり取りも電話でたまにということになった。それで父親が深酒をするようになったのではないと思うんだが、1ヶ月に1、2回実家を訪れていたぼくにある日父親が、最近、焼酎のお湯割りを入れているコップ(300ccほど入るガラスジョッキ)を持つのが辛くなったと言ったんだった。しばらくして腎臓がんが悪化していることが分かり手術も受けたが、それから1年半ほどして鬼籍に入ったのだった。その間にぼくはたまたま両親の隣の家が売りに出されていたので購入して父親ががんの告知を受けて暫くして住むようになったが、現在も住んでいて週に4日は母親と一緒に夕食を食べている。母親は以前から指を動かすのが大変で、それでも以前は美しい水彩画を書いていたんだが、特に炊事はほとんどできなくなっている(やっとの思いで食器を洗っている)。ヘルパーさんのお世話になることもあるが、洗濯やトイレは時間がかかるが何とかこなしている。そうして何とか母親は頑張って来たが、最近下肢に蜂窩織炎ができたと外科系のかかりつけ医の世話になっている。抗生物質をもらったと飲んでいたが、下痢がひどくてほとんど眠られないと聞くと次の受診まで身体がもつのかなと心配になってしまう。駅前で客待ちをしているスキンヘッドのタクシー運転手は、もう70才は軽く超えていて80才に近いみたいだから、多分ご両親はいないと思うが、介護をどうしていたんだろう。そこにいるから尋ねてみよう。「こんにちは」「オウ、ブエノスディアス。船場はんが最近わしを出してくれへんから、スペイン語の勉強に身が入らんわ。そやから要点を日本語で言うけど、親が自分にしてくれたことを忘れんといつまでも大事にしいやちゅーことやわ」「確かに弟や妹は大学に行かせてもらえなかったのにぼくは行かせてもらいました」「それだけとちゃうやろ」「ぼくが実家を出るまで入れていたお金を使わずにずっと貯めていてくれて、お金が入用になった時にそのすべてを返してくれました。それで実家の隣の家をぼくが購入するための元金ができました」「まだまだあるやろ」「ぼくが43才から56才の頃は、山登り、小説の出版、レコードコンサートの開催など色々なことをしていたのですが、小言も言わないでやりたいことをやらしてくれました」「そういうこっちゃから、誰にも負けんほど、船場はんはお母さんの世話になっとる。そやからしんどい思いをしている時は助けてあげんとあかんよ」「鼻田さんの言われる通りですが、ぼくはあつかましいので、まだ夢を持ち続けています」「LPレコード・コンサートの再開、クラリネットのレッスンをもう一度受けること、それから懸賞小説に応募することやろ。それは一時休止することはできるやろから、とりあえず再開したり、始めたらええ。でもお母さんが困っていると思うたら、すぐに助けてあげるんやで。情けは人の為ならず。あんたがお母さんに尽したら、弟妹もええ印象を持って、もしもの時には助けてくれるから」「そうですね、肝に銘じておきます」