プチ小説「最後の出勤日を前にして」

私は1985年から医療機関に勤務しています。そして明日そこを退職します。37年余りの間いろんなことがありました。いろいろな事情があって管理職になれませんでした。また女性に縁がなく結婚はしませんでしたので、その分、趣味の世界に没頭することが出来ました。読書、旅行はもちろん、それを掘り下げて音楽鑑賞(クラシック、ジャズ)、オーディオ、レコード蒐集、レコードコンサート開催、槍・穂高登山(合計7回行きましたが、上高地―槍沢―槍ヶ岳―南岳―北穂高岳―涸沢岳―奥穂高岳―前穂高岳―岳沢―上高地という縦走はできませんでした。涸沢岳近くの穂高岳山荘まで行ったのですが、翌日天候が悪くて先に進むのを断念してザイデングラードから下山したことが2度ありました)など、また写真撮影が趣味なので、ライカM6,M9やニコンD90にいろんなレンズを取り付けて、花、花火、夜景、アルプスの山なども取りました。そうした写真や体験記などを記録しておきたいとホームページに掲載し始めました。そのうちなんとなく小説を掲載したくなり、短編小説を書くようになりました。短編小説を一作書くのに結構長い時間が掛ったので、無駄をなくして沢山の量の小説が書けるプチ小説を書き始めました。A4用紙一枚くらいの量で一作書くので、1日に5作書くこともできるわけです。そうしたプチ小説を1000余り書いたのですが、プチ小説を書き始めて1年も経たないうちに書いた文豪ディケンズが主人公の夢の中に登場する『こんにちは、ディケンズ先生』は次々とアイデアが生まれ、瞬く間に75話まで書くことができました。話は変わりますが私は大学生の頃に読売新聞の2面か3面に近代文藝社の広告が出ていたのを覚えていました。原稿を送ればA、B、Cのランクを付けてくれて、Aだと企画出版で出版費用、広告費はすべて出版社もちで出版する。Bだと自費出版で出版費用、広告費は著者が負担するが、流通しまた広告料を支払えば新聞などに広告も掲載してくれる。Cは完全自費出版ということで、校正印刷して出来た本を著者に渡すだけということになる近代文藝社の原稿の評価を。残念ながら私の原稿はB査定でAとはならなかったのですが、自分の著書が本屋の店先に陳列される可能性があるということは今後の大きな楽しみになると考えて、自費出版をすることにしたのでした。文豪ディケンズが主人公の夢の中に登場するということで、チャールズ・ディケンズの親睦団体のディケンズ・フェロウシップに自著を1冊送付したところ、名古屋大学のM先生から、10月に京都大学で秋季総会が開催されるので参加しませんかとメールが送られてきました。勿論参加して、早稲田大学のU先生はそれ以来集いに参加するたびに暖かい声を掛けてくださいました。その後京都大学のS先生(当時の日本支部長)、福岡大学のW先生なども私を励まして下さるようになり、2014年西南学院大学で行われた秋季総会でミニ講演をしたり、『こんにちは、ディケンズ先生』の続編(2~4)を出版するモチベーションを支えて下さったのでした。ディケンズ・フェロウシップでいろんなディケンズの情報を得ることができたので、ディケンズ先生をよりリアルにすることができ興味を持って描くことができたのでした。他にもディケンズ・フェロウシップにプチ朗読用台本を寄稿していたのですが、その台本のひとつを学習院大学名誉教授の荒井良雄先生が興味を持って下さり、私が何度かレコードコンサートを行った東京杉並の名曲喫茶ヴィオロンで朗読会をしてくださったのでした。ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』の名場面を切り取り、小説の内容や台本の場面に至るまでの経緯を付けたもので、名曲喫茶ヴィオロンのマスターに原稿を渡していただくよう依頼したところ荒井良雄先生が取り上げて下さったのでした。また福岡大学のW先生はイギリス文学の疑問点を詳らかに解説して下さり、長文のメールを何度も取り交わしました。早稲田大学のU先生は西南学院大学で行われた私の講演に先立ち解説をしてくださり今でもそのことを感謝しています。仕事のストレスを発散するために昔の中国の社会的地位の高い人の一部のように酒で憂さをはらすのではなく、山登り、小説の出版、音楽(レコードコンサートの他に50才からクラリネットを習い始めました)、写真、ホームページなどを楽しみながら続けたので、充実した43~60才となり何とか63才までやってこられたのだと思います。仕事は明日で終わりとなりますが、趣味は思考が出来る限り続けて行きたいと思っています。そうして例えば、8月から母校の図書館で執筆した小説が脚光を浴びることが出来たら、私の人生もまんざらでもなかったと思えるのではないのかなと思っています。、