プチ小説「こんにちは、N先生 29」

私は7月31日付で37年余り勤務した医療機関を退職したのですが、市役所やハローワークで健康保険や雇用保険の手続きをする必要がありました。8月3日の午前中に手続きの準備ができたので、どこかで昼食を食べてから市役所とハローワークに行くことにしました。
<王将の薬膳🍜と豚キムチのジャストサイズは昼食として分量が丁度良かったのに月が替わって薬膳🍜は食べられなくなってしまった。それで松屋の回鍋肉定食を食べようと思うがあれは温泉タマゴが付いているから。卵かけごはんも食べられる。でも1ヶ月ほど前に食べたココ壱番屋のキーマカレーは美味しかった。ぼくは辛いのが苦手だけどあれはとても美味しいから、食事の間中悲しくもないのに涙が止まらなかったんだが何度でも食べたいと思う>
結局、私は松屋で回鍋肉定食を食べることにして、食券を買って冷たい玄米茶を入れて席に着こうとするとN先生から声を掛けられたのでした。
「君はおまけのトッピングを温泉タマゴにしたようだが、私はキムチにしよう。たった750円で回鍋肉定食と卵かけごはんも食べられるなんて夢のようだ」
私はそれならなぜN先生が温泉タマゴにしないのかと思いましたが、何も言いませんでした。
「ところで君は『モンテ・クリスト伯』を大分読んだのかな」
「前回先生とお会いした時から後はフランツとアルベールという若い貴族とモンテ・クリスト伯が親しくなるところを描いていますが、ここのところは今から25年ほど前に読んだという記憶が私には残っていません」
「だって君は、『モンテ・クリスト伯』を一度読んだだけなんだから仕方ないさ」
「私はダングラール、フェルナン、ヴィルフォールがどのようにモンテ・クリスト伯(エドモン・ダンテス)からどのように復讐されるのかも全然覚えていません。ただヴィルフォールのお父さんが興味深い人物でディケンズの『オリバー・ツイスト』のグリムウィッグ氏のようなちょっと息苦しくなった時にその場を明るくする役割の人物と思ったことを覚えています」
「そうだね、それにノワルティエ老人はモンテ・クリスト伯の味方になる人物だね」
「でも第2巻に入った頃からモンテ・クリスト伯とアルベールとの間で起こった事件のことを描いています。ルイジ・ヴァンバにアルベールが誘拐されてアルベールに高い身代金が課された時にフランツはモンテ・クリスト伯に助けを求めますが、アルベールの部下(手下)ペッピーノがモンテ・クリスト伯に救われたということであっけなく開放されます。これは本筋であるモンテ・クリスト伯の復讐とは、全然関係のないことのように思うのですが」
「いやもうしばらく読み進むとアルベールはこの小説の中で重要な役割を果たしていることがわかるだろう」
「とにかく今2度目なんですが、細部を全然覚えていないので一回読んだと偉そうに言うのが憚られます」
「でもエドモン・ダンテスという船乗りが、3人の悪人に陥れられ若くして絶海の孤島の牢獄に拘束されるが、そこで出会ったファリャ司祭から教育を受け、財宝の在りかを教えてもらう。何が原因で幽閉されたかがよくわからなかったダンテスもファリャ神父から説明を受けて、ダングラール、フェルナン、ヴィルフォールが自分を陥れたということを知る。何とか脱獄に成功したダンテスはモンテ・クリスト伯と名前を変え、3人への復讐を始める...そういうあらすじはわかっているんだろう」
「でもそれだけじゃあ、偉そうに読んだとは言えないでしょう」
「いやいや、百里の道も一歩から。君が岩波文庫で7巻もあるアレクサンドル・デュマの大作を読もうと思ったことは讃えられるべきもので、実際それは大きな利益を齎した」
「確かにそれ以来、4巻以上に及ぶ大作を読むことも恐れなくなり、ハードカヴァーもどんどんどしどし読めるようになったんです。『戦争と平和』『レ・ミゼラブル』『トム・ジョウンズ』が読めるなんて、大学生の頃は考えなかったんです」
「2巻くらいの作品なら、1年で書くことが可能かもしれないが、5巻以上となるとその作家のライフワークと言える。人間と同じで作家もその登場人物との長いおつき合いになるから、愛着も湧くし精魂込めて書き上げる。その小説の主人公と作者の性格がどことなく似てきたりする。ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』、モームの『人間の絆』なんかもそういった小説の範疇に入る」
「『モンテ・クリスト伯』を再読して、これからも新しい発見があると思います。一回で理解できなかったことを恥じずに2回3回と繰り返し読んで理解を深めたいと思います」
「君の場合はそれはちょっと年齢的に無理がある。でも読書は楽しいものだから何度も読むのは大賛成だよ」
するとすぐに厨房のところにある番号の掲示板にN先生の番号が出たので、私はご飯の上に温泉タマゴを乗せて醤油をかけたのでした。