プチ小説「こんにちは、N先生 31」
私は2016年から4年続けて京都の五山の送り火を見たのですが、一昨年と昨年はコロナ禍で部分点灯となったため京都には行かず点灯の様子をテレビで見ただけでした。今年は3年ぶりの全面点灯ということで出掛けることにしましたが、今までに点灯しているところを実際に見たことがない(肉眼で見たことがない)鳥居形を見に出掛けることにしました。五山の送り火は、「大文字」「妙」「法」「舟形」「左大文字」「鳥居形」の6つの文字や形状が山肌に浮かび上がりますが、このうち「大文字」と「左大文字」は山の高いところに浮かび上がるので見やすいのですが、「妙」「法」「舟形」「鳥居形」は山の下の方で薪が焚かれるので遠方からはとても見にくくなっています。それで高層の建物(マンションやホテル)から見るのがよいとされ、京都市民はマンションの屋上などから、それ以外の人はホテルを利用するというのが賢い鑑賞(お参り)方法となります。今回は鳥居形の写真を撮ることを目的に出掛けましたが、見るというだけなら嵐山までいって桂川河岸から渡月橋の向こうにある鳥居形の上の方が燃えているのをちょびっと見て帰るというのでもいいのでしょうが、写真を撮るとなるといろいろ大変です。まず場所を確保することが大切です。例えば大阪で開催される淀川花火大会なら、場所によっては30度位の仰角でフレームを設定できますが、鳥居形を桂川河岸から撮るとなると仰角3度位でしか撮られません。しかも前の人の頭が気になりますから、最前列にしゃしゃり出る(こういうのがピッタリだと思うのです)必要があります。しかし若い女の子やおばさんと接触するのも危険があるので、屋根の上を爪先で歩くように慎重に行動します。勿論三脚を立てることは絶対無理なので手撮りということになりますが、15分の1のシャッタースピードでもブレるので、私が写真歴47年と言っても暗闇の中ブレずに撮影することはまず不可能と思えます。また1キロ以上離れた被写体の明るさを感知するのに、カメラに内蔵された露出計に頼ってよいのかかもよく分からず、京都五山の送り火を撮影する時はいつも写真のことがよくわからない素人になってしまうのです。そんなわけで、立ち位置から1メートル四方に人がおらず、被写体の送り火が障害物なしにフレームに収まり、ISO2500などと無理な設定をせずにISO400で絞り込んで(F16~F22)で20~30秒のスローシャッターが切ることができないのなら京都までのこのこ行ったとしてもまともな写真は撮られないときっぱりと言えば良いのですが、私は、まあ何とかなるやろと大阪人のお気軽な精神を余すところなく発揮して今年も何となく五山の送り火の撮影に出掛けたのでした。
しかも今年の五山の送り火は天候が最悪でした(でも中止にならなかったのは幸いでした)。私が阪急嵐山駅を降りると突然厚い黒い雲が垂れ込めてきました。最近、東北をはじめ日本列島の彼方此方で天候が不順で突然豪雨になるので傘は持参しましたが、鳥居形点灯(午後8時20分)の1時間半前位から降り始めた豪雨は雨傘で凌げるような雨ではありませんでした。稲光がして雷鳴も大きな音だったので、人がたくさん集まっているテントの近くに移動して雨の勢いが落ち着くまで待つことにしました。ふと、消防団のテントを見ると近くに普通の傘より30センチほど径のある傘を差している人がいました。その人は最初はほとんど雨にかからないために余裕の表情でしたが、突然吹いた突風で傘は骨が折れてしまいました。よく見るとそれはN先生でした。私は、N先生が気の毒と思ったので私の傘を先生に渡して、私は残骸となったビニール傘のビニールを雨除けに使いました。
「いや、すまないね。でも、この調子じゃ、送り火は開催されないんじゃないか」
「いえいえ、私が送り火を見に来るようになったのは2016年からですが、その年も午後7時台に豪雨となりました。それでまさかしないだろうと思って点灯して20分して帰ったのですが、後でニュースを見ると送り火は実施されていて、送り火が見られなかったのは、雨で(信じられないくらい?)曇っていたからということがわかったんです。だからこれくらいの雨なら開催されるでしょう」
実際、諦めて帰るような人はいませんでした。
「そうか、それなら雨が止んだら河岸に移動して点灯を待つことにしよう。ところで最近読書をしているかい」
「先生、それは『モンテ・クリスト伯』のことですか、それとも...」
「勿論、この前に読み終えた『ゼロの焦点』のことだよ」
「でもこの小説の目的は外国文学を身近にするためのもので、松本清張の小説を紹介するものではありませんし、ネタバレの恐れもあります」
「それは心配ないと思うよ。例えば犯人は社長夫人だと言ってもこれだけでは経緯は全くわからないだろう。それに彼女は2人を崖から突き落とし、2人に青酸カリが入った飲み物を飲ませて殺害するのだが、その為には男性を崖下に突き落とすだけの腕力があったのか、青酸カリは簡単に手に入ったのか、青酸カリ入りの飲み物を飲んだ2人が途中でウエッと吐き出さなかったのかとか素人探偵がツッコミを入れたくなるようなところがあってこの小説はとても楽しい。2枚の写真の謎、禎子の夫の突然の失踪の謎、夫が以前東京で巡査をしていた時に親しかった女性の謎とかが丁寧に解き明かされていく」
「そうですね、私もどうなるのかと手に汗を握りながら最後の250ページ程を一気に読んでしまいましたから」
「だから君がこれから読もうと思っている、『Dの複合』『眼の壁』『時間の習俗』もきっと君が楽しんで読むと思うから、それぞれを読み終える度にぼくは現れるとしよう」
先生がそのように言われて渡月橋の東側を見ると⛩が浮かびあがっていたので、また悔しくて臍を嚙むんだろうなと思いながらもカメラをバッグから取り出してスローシャッターを切ったのでした。