プチ小説「こんにちは、N先生 34」

私は最近大学図書館に行った帰りに時々阪急高槻市駅で下車して松坂屋に行き地下食堂街でお惣菜を購入するのですが、海鮮寿司と焼き鳥とハムサラダを購入して御座候の列にならんでいると、N先生が声を掛けられたのでした。
「今日、阪急電車の中で『眼の壁』を読み終えたようだね」
「ええ、N先生、でもこの小説は昭和33年に週刊読売に連載されていた頃から大人気だったようで、いろんなトリックがあって、『ゼロの焦点』や『Dの複合』と違って舟坂という組織的な暴力を犯す人物も登場するので、はらはらどきどきで最後まで楽しめました」
「ぼくは思うんだけど、何よりウケたのは、サギに引っ掛かって3千万円を騙し取られて自殺した上司の敵討ちみたいなところから始まることじゃないかな。素人探偵が知り合いの新聞記者田村満吉と一緒に犯人探しを始めるが、素人なので組織的に捜査をする警察のようには行かない。萩崎竜雄と田村満吉が情報交換をし合うことで、少しずつ進展していく。田村は新聞記者だから新聞社の支局を利用できるし萩崎のために尽力してくれる。また萩崎も上司の命令で会社の仕事として事件に取り組めるようになったのは事件が無事に解決できた要因だと思う」
「そうですね、素人探偵が仕事の合間を縫って調査するのでは解決はできなかったと思います」
「それに今と違って昭和30年頃は理由があれば戸籍係が簡単に個人情報を提供してくれたので、事件のこんがらがった糸をほぐすために役立ったと言える」
「舟坂、山本、上崎はいずれも梅村という姓で親戚関係ということを萩崎が知るのも長野県、岐阜県を萩崎が地道に調べた結果ですが、役所の戸籍係が個人情報だから開示できないと拒んでいたら、萩崎の探偵活動は行き詰っていたことでしょう」
「そのとおり、そのような調査が出来なくなった今の時代では、素人探偵というのはありえないと言えるだろう」
「『ゼロの焦点』では鵜原禎子が、『Dの複合』では伊瀬忠隆が事件に巻き込まれて探偵役となりますが、『眼の壁』の場合は同じ電機会社で働く課長が約束手形を騙し取られて責任を取って自殺し、その部下である萩崎が犯人探しを始めるというのが発端です。それで金融に関する法律や銀行業界のことが説明される経済小説なのかなと思っていたんですが、舟坂が怪しいと調査をしていた瀬沼弁護士が拉致されたりその部下の赤いベレー帽の男(田丸利市)が殺されたりして、殺人犯を探すのが重点となっていきます。そうして萩崎の上司の関野課長を騙した堀口は、瀬沼弁護士の部下の田丸を殺害した山本と同一人物であることもわかってきます。こうして当初の経済小説から、萩崎が田村の力を借りて舟坂の悪事を暴いて行くという内容の小説に変わっていきます」
「捜査二課が取り扱うような知能犯の犯罪小説を書いてみたらと著者が言われて書き始めたのだが、最終的には金融とは関係ない殺人犯探しの小説になってしまったという感じだね。でもこの小説も探偵役になった人があちこち訪ね歩く、犯人側も摺古木山や青木湖畔まで殺人のために出掛けている。東京のホテルの一室とかで殺人事件だったら、旅愁というものは発生しないが、松本清張の推理小説にはそれがあるんだ」
「旅愁ですか?」
「そう、時刻表、観光名所、その土地の歴史、名産品、地図なんかは小説に付加価値を付けると思うよ」
「そうか、そういう楽しみがあるから、松本清張の推理小説は面白いんですね」
「で、次は何を読むのかな」
「ずっと前に読んだ『点と線』の名コンビ、三原警部補と鳥飼刑事が復活する小説『時間の習俗』と加藤剛主演で映画になった『砂の器』が手元にあります。まずこのふたつを読んでから次のことを考えたいと思います。夏バテ気味だったので、出来るだけ疲れない小説を読もうとこの1ヶ月ほどは、『モンテ・クリスト伯』をあまり読まなかったのですが、そろそろ本腰を入れようかなと思っています」
「そうだね、そろそろ西洋文学の名著をどんどんどしどし読むようにするのがいいと思う」
そう言って、N先生がJR高槻駅前の陸橋に置かれているベンチに腰掛けて白あんの御座候を食べられたので、私もご一緒したのでした。