プチ小説「こんにちは、N先生 36」

私は小さい頃からカレーが大好きで、母親が作るハウスの粉カレー(1960年代当時はルーでないものもありました)は大好物でした。今ではハウスのジャワカレーやエスビーやグリコのカレーを自分で作ったりしますが、カレー屋さんで食べるのも大好きです。最近はCOCO壱番館のカレーが大人気で他のカレー屋さんの影が薄くなっていますが、2ヶ月前からコンビニで購入できるその店のレトルトカレーも美味しいJR高槻駅前のヴァスコ・ダ・ガマに行くようになりました。少し辛いのですが、カレー本来の旨味が口の中に広がりとてもおいしくて、大盛りを頼んでも750円なのでもう3回行きました。今日も母校の図書館での小説の原稿を書いた後にヴァスコ・ダ・ガマまでやって来ると、店の前で手を振る人がいました。近づいてみるとそれはN先生でした。
「君がここのカレーが美味しいというので、ぼくも食べてみたいと思ったんだ。入ろうか」
先生は最初足の長い椅子に戸惑っている様子でしたが10センチほど低くすると、カレーの大盛りを注文されました。もちろん私も同じものを注文しました。
「ここいちの味も嫌いじゃないんだが、本体価格が1000円くらいして、いろいろトッピングをしたり、量を多くしたりすると1400円くらいになる。冷静に考えるとそれは高いということになるんだが、少しの幸せ感の積み重ねがあるから文句は出ない。最初からカレーだけの味で勝負して大盛りも同じ値段というカレーがあるのなら、ぼくはそっちの方を選びたいね」
しばらくすると大盛りカレーが出て来たので、N先生はピクルスを食べた後カレーを食されました。
「うーん、辛くてちょっと目頭が熱くなったが、美味しいカレーだね。ほんとに程よい辛さでこれだけの量だとお腹もふくれる」
先生は匙が止まらないようで2分でそのカレーを全部食べてしまわれましたが、私は引き続き最近読んでる本の話をしてほしいとN先生から言われると思ったので、カレーを半分だけ食べて先生から話し掛けられるのを待ちました。
「ところで、『モンテ・クリスト伯』を楽しんでいるかい」
「ええ、この前は第6巻の初めあたりで、4人の悪人のうちの一人カドルッスが亡くなるところを一緒にお話したのでした」
「そう、ベネデットに殺されるんだが、ベネデットは5人目の悪人と言える。ただエドモン・ダンテスに対して危害を加えていないので、ダンテスの復讐の対象ではない。むしろカドルッスを殺害したり、アンドレア・カヴァルカンティ伯爵と名前を変えてダングラールの娘ユージェニーと結婚寸前まで行き悪事が発覚しダングラールの信用を失わせるという、ダンテスのお役に立っているとも言える人物だね」
「そういったかたちで復讐をするために、ダンテスはベネデットとカヴァルカンティ伯爵の父役を演じる老人をお金で抱き込んだ(雇った)と言えます。悪人だからお金のためなら小さなことに拘らないで何でもするのを利用して、銀行の経営が傾いていたダングラールが危険な賭けをするように導いたと言えます」
「第6巻ではフェルナンが追い詰められて自殺している。このように書くとただの暗い小説のように感じるが、そこに至るまでのモンテ・クリスト伯(エドモン・ダンテス)の苦悩も描かれている」
「自分の夫の立場が危ないと思ったフェルナンの妻メルセデスはモンテ・クリスト伯が昔の婚約者ダンテスであることを見抜き、なぜ復讐の対象のフェルナンだけでなく、息子のアルベールまで傷つけようとするのかと詰め寄ります。『ただし、罪あるものだけに復讐なさればいいのです。あのひと(フェルナン)に復讐なさるのはけっこうです。わたくしに復讐なさるのもけっこうです。でも、息子(アルベール)に復讐なさることだけはおやめください』とメルセデスに言われてダンテスは、『おれはばかだった。復讐しようと決心したとき、心臓をむしり取っておけばよかったんだ!』思います。このあと息子のアルベールが父親の名誉の回復のためにモンテ・クリスト伯に決闘を持ち掛けますが、ダンテスの心情を理解したメルセデスとアルベールはフェルナンと決別してふたりで静かに暮らすことになります。そんな二人にダンテスは昔父が使っていた家を提供します。このあたりのダンテスの苦悩と決断と実行はただのエンターテインメント小説の枠を超えているように思います」
「一方ヴィルフォールに対する復讐は推理小説っぽい感じだね。3人を平然と毒殺しヴァランティーヌをも毒殺しようとする殺人鬼のヴァランティーヌ夫人エロイーズは目的達成のためには手段を選ばない。自分の息子エドゥワールがヴィルフォールの全財産を相続できるように近親者を殺害している。この殺人鬼がどのように懲らしめられるのか、ヴィルフォールに対する復讐はどうなるのかというのが、第7巻の楽しみというところだね」
私はカレーの残りを食べてしまうと、N先生を促して外に出ました。
「でも正直今から20年ほど前に始めてこの小説を通して読んだ時には、こんな複雑なストーリーだとは思いませんでした。印象に残ったのは、14年間ダンテスが幽閉されていてファリャ神父に出会い脱獄し、隠された財宝を掘り出しそれを元手にして4人に復讐していくというストーリーだというのはわかりましたが、その復讐の仕方も記憶に残っていません」
「じゃあ、何が記憶に残ったのかな」
「ノワルティエ老人が目だけを使ってヴァランティーヌと会話する場面、ダンテスがメルセデスと再会する場面なんかは印象に残っているのですが、3人の悪人(ヴィルフォール、ダングラール、フェルナン)のそれぞれの子供ヴァランティーヌ、ユージェニー、アルベールがそれぞれ重要な役割を果たし、ヴィルフォールが殺害しようとした嬰児がモンテ・クリスト伯の家令ベルトゥッチオに助けられて成長し、ベネデット、アンドレア・カヴァルカンティ伯爵と名前を変えてダンテスの復讐に大きくかかわるということはまったくわかっていませんでした」
「それは仕方ないだろう。というのも当時は君の読解力が今ほどはなかったし、今みたいにインターネット検索できるわけでもない。ディケンズの長編小説はハードカヴァー2冊くらいだが、『モンテ・クリスト伯』は7巻もあるからなかなか再読に取っかかれない。よくもう一度読んでみようと決断したものだ。まあ最後の1巻を心行くまで楽しむことだ」
外に出ると、三日月のためかいつもより星がたくさん見えました。先生がもうすぐ10月になるから木星が見えないかなと言われたので、一緒に探したのでした。