プチ小説「こんにちは、N先生 37」

私は7月から不定期に出身大学の図書館に行き、懸賞に出す小説を書いたり興味のある小説を読んだりするのですが、運動不足解消のため駅から大学まで歩く私にとって西大路四条のバス停から立命館大学や洛星高校の学生が多数乗車しすし詰め状態になるバスに雨の日に乗る気がせず、雨の日はパスと言って大学図書館に行かず前日に酒を飲んでお昼近くまで布団をかぶって寝ていました。それでも私の余生も限られていますし、下手な鉄砲は数打たないと当たらないと思いますので何とかちょっとでも小説を書く時間を作ろうと思ったのでした。それで阪急西院駅で下車して西大路四条で市バスに乗るのではなく、阪急烏丸駅で下車して、12番、52番、55番の立命館大学前行きのバスに乗れば洛星高校の学生は乗って来ないので牛ぎゅう詰めのバスに乗らなくて済むのではないかと考えたのでした。烏丸駅の西側の出口を出て市バスのD乗り場でバスを待っていると12番のバスがやって来ました。それほど混んでなかったので私はバスに乗り込んだのでしたが、乗るとするにバスの最後尾から聞きなれた声がしました。「ここの席も開いているから、座ったらいい」N先生の声でしたので、私はすぐに反応して掃除機にお尻が吸い込まれるように腰掛けました。「君がようやく『モンテ・クリスト伯』全7巻を読み終えたと聞いたので、このバスに乗ることにしたんだ」私はなぜ私が『モンテ・クリスト伯』7巻を読んだぞーと誰にも言っていなかったですし、四条烏丸のバス停から市バスに乗ろうと決めたのは今朝のことですし、52番や55番のように始発でない12番のバスに乗ったのはただバスが空いていただけなのに、N先生がそのバスに乗っておられたのはとても不思議に思いました。私はその点を尋ねてみました。
「そりゃあ、1週間前に6巻を読み終えた君は、のめり込むタイプだから5日位で7巻も読み終えると考えたんだ...」
「でも12番のバスを乗ることは予想できないのではないですか」
「ああそれは君が帰りのバスで一番利用することが多いのが12番という統計が出ている」
私はN先生との会話がかみ合っていないことに気付いていましたが、ついでにもう一つ尋ねました。
「ではなぜわたしが今日四条烏丸からバスに乗ったんでしょうか」
「それは簡単だよ。10月4日からミュージックサロン四条でのクラリネットのレッスンを再開したから、また愉快な気分になりたいと阪急烏丸駅で下車したんだよ」
私は明らかにポイントがずれていると感じたのですが、何も言いませんでした。
「君はこの前20年ぶり2回目と言っていたが、最後まで読んでみてどうだった」
「前に言いましたように、当時読んでいて楽しかったということは覚えていますが、内容がわかっていたかは怪しいもんです。30パーセントも理解できていなかったでしょう。ただ長編小説を読む楽しさを知らしめてくれた小説と言うのは確かなことですから、何パーセント理解と言うのは関係ないかもしれません」
「それでも2回目はしっかり読んだんだろ」
「そうですね、今は読解力も当時よりはずっとありますし、インターネット検索は結末だけは教えてくれませんが、あらすじと登場人物を読むと95パーセントは物語の内容が分かるように説明してくれます」
「モンテ・クリスト伯の復讐は前に行ったようにヴィルフォール、ダングラール、フェルナンの3人への復讐に留まらない。それぞれ家族を持ち、子供がいるので影響がそちらまで波及している」
「ヴィルフォールに関して言えば、ヴィルフォール夫人による前夫人の両親とノワルティエ氏(ヴィルフォールの父)の召使の毒殺が家族の誰かによって行われたと医師から説明を受けたこと、医師から犯人捜しを警察に依頼するよう示唆されたのにしなかったこと、ヴァランティーヌの毒殺未遂が防げなかったこと、自分の保身のためにヴィルフォール夫人に服毒自殺を勧め、実行されたこと、裁判でアンドレア・カヴァルカンティ伯爵(ベネデット)から自分とダングラール夫人との間にできた子供で嬰児のときに生き埋めにされそうになったが、ベルトゥッチオに助けられたと告発されたことなどが頭の中でぐちゃぐちゃになって発狂してしまいました。確かに精神的に追い詰められたということはよくわかるのですが、フェルナンのように自殺をするわけではありませんので、落ち着いたらまた悪いことをしそうな気がします」
「それでも夫人が服毒自殺をして、しかも我が子を道連れにされたのだから、ショックは大きいと言える。ヴィルフォールはマクシミリアン・モレルと同様にヴァランティーヌも夫人に毒殺されたと思っていたのだから、裁判で栄光を勝ち取れると思っていたところ、被告から罵倒され傍聴人から疑いの目で見られ、家に帰ってみると妻と最愛の息子が死んでいる。これで自分の家族がまったくいなくなってしまったというショックは相当なものだ。仮に精神状態が回復しても何もできないだろう」
「フェルナンはかつて自分が犯した過ちを暴露されて自殺しますが、フェルナンの妻メルセデスと息子アルベールにモンテ・クリスト伯は温かい救いの手を差し伸べています。やはりメルセデスが、フェルナンや私に復讐するのは結構だが、息子に対しては何もするなと言われたのが心に引っ掛かったのでしょう。モンテ・クリスト伯(エドモン・ダンテス)はメルセデスの訴えで、自分の3人への復讐の信念が揺らぎ始め、ついには自分の考えの正しさを確認するために幽閉されていたシャトー・ディフに出掛けます。その後シャトー・ディフは観光地のようになりダンテスは案内人によって当時のことの説明を受けます」
「当時どれほどひどい状況だったのか、生死の間を生き延びたのかを追体験した感じで、ダンテスは復讐の炎をもう一度燃焼させる。でもこの時点でフェルナン、ダングラール、ヴィルフォールへの復讐は終わっていて、自分がした復讐の正当性を読者に確認させているというような感じがする」
「ダングラールに対する復讐は彼が銀行の頭取なので、公債で損失を出させるようにモンテ・クリスト伯が偽の情報を流して財産の多くを失わせたり、モンテ・クリスト伯に引っ掛けられて不渡り手形を切ってしまい夜逃げをすることになります。逃亡先で、ルイジ・ヴァンパらに拘束され有り金すられ食料もほとんどあたえられず生命が危険なところまで追い詰められますが、最後はモンテ・クリスト伯の温情で釈放されます」
「財産がなくなり、夫人はヴィルフォールとの関係が暴露され、もともと奔放だった娘が好きでもないアンドレア・カヴァルカンティ伯爵と結婚されそうになって嫌気がさし家出をするが、フェルナンやヴィルフォールほど復讐は悲惨なものではないような気がする」
「そんな面白いながらも復讐という暗い内容の小説の最後は2つのカップルが結ばれるというハッピーエンドでしたね。ヴァランティーヌが毒をもられてから、しばしばマクシミリアンが登場して、ヴァランティーヌを救えなかったと訴えますが、結局はモンテ・クリスト島で保護されていたのでした。マクシミリアンは何度も何度もモンテ・クリスト伯を責めたので、もう少し早くヴァランティーヌは存命していてマクシミリアンのことを愛していると言ってあげられなかったんでしょうか」
「それはやはりダンテスが幸せになるだけでなく、もう一つ幸せになるカップルがこの暗い物語の終わりには必要だと考えたんだと思うよ。3人の復讐を終えた主人公が、あースカッとしただけでは文学史上光彩を放つ小説にならなかっただろう。マクシミリアンとヴァランティーヌの恋愛、メルセデスとアルベールの親子の情愛がなければ、サスペンス、ピカレスク、冒険小説のいずれかに属する小説というので終わっただろう」
N先生が、次は何を読むのと訊かれたので、私は『人間の絆』がいいですねと答えました。