プチ小説「こんにちは、N先生 38」
わたしは7月から出身校の図書館平井嘉一郎記念図書館に通っているのですが、9月26日に(学生の皆さんの)後期日程が始まってからは行きも帰りも歩いて通学するようになり健康もかなり回復してきました。最初は片道1時間近くかかっていたのですが最近は47分位で行けるようになり体重も少しは減ってきました。N先生がおられたら、往復通して走って行きも帰りも30分位で行けるようになればあと10キロは減量出来て40代の最盛期の頃の体重を取り戻せるだろうと言われそうですが、マスクをしていて息が続かないのでちょっと難しいかなと思っています。後期が始まってからは、学生が戻って来て校内は活気であふれています。図書館が午前8時30分から午後10時まで利用できるようになっただけでなく、食堂も利用できるようになったので、お昼休みが有効に使えて外食して食べすぎることもなくなったので本当に有難いことだと思っています。と言っても存心館と諒友館の食堂は1回ずつ利用しただけで、いつも諒友館のお弁当屋さんで472円の弁当を買って食べています。いつものように諒友館で弁当(今日は唐揚げエビマヨソースライスセットにしました)を購入して西側広場にあるテーブルに弁当を置いて食し始めました。リュックの中に入れてたペットボトルを取り出して席の向かい側をふと見ると、N先生が弁当をテーブルに起きながらわたしに微笑みかけておられました。先生は先着15名しか購入できない今日の弁当を持っておられました。
「君がなかなかここに来ないから、あちこち歩き回っていたんだよ。ぼくがいた1980年から1985年の頃は今の東側広場ところに図書館があって、3階だったけど今のような立派な図書館ではなかった」
「でもわたしには思い出いっぱいの図書館です。小説にも登場しましたし」
「そうだったね。それからテニスコートがあったところに敬学館という校舎が立っている」
「わたしが入った年度(1981年)から広小路学舎がなくなり、衣笠学舎だけになりました。当時は法学部、経済学部、経営学部、産業社会学部、文学部、理工学部がありました。その後滋賀県草津と大阪府茨木に学舎ができました。現在、衣笠には法学部、産業社会学部、国際関係学部、文学部、映像学部の学生さんが通学されているようです」
「君が37年間勤務した医療機関は職員で若い人もいたが、普段会う人の8割くらいは年配の人だった」
「ええ、だから7割くらいは若い学生のキャンパスで過ごすことは心が弾むことです」
「そう思っているんだったら、同じ席に座った人に気軽に話し掛けてもいいんじゃないかな」
「えーっ、そうですか、こんな年取った男と話して楽しいことはないでしょう。特に女性はわたしから話し掛けられると危険を感じるんじゃないでしょうか」
「まあ、それはそうかもしれないが、この前みたいに英語圏の男性から英語で話し掛けられた時はきちんと返答するべきだったと思う。すぐに伝家の宝刀、アイ キャンノット スピーク イングリッシュ というのではほんとに情けないと思うな。特に西側広場は国際関係学部の校舎恒心館の真ん前だからここのテーブルで弁当を食べる留学生が多い。彼らをしらけさせないためにも君は冷や汗をかきながらでも英語で話すべきだよ」
「そうですか、でも例えばぼくが、アイ ロウト ア ノベル と言っても興味は持たないでしょうね」
「そうだね、どこから来たのかとかを話すことしかできないだろうけど、笑顔で話し掛けるだけでいい。親切な学生だったら思わぬ情報を持って来てくれるかもしれない。言葉の壁はあるけど慣れれば彼らと仲良くできるようになるかもしれない。まあ挫けず頑張ることだ。ところで君は『モンテ・クリスト伯』を読み終えた後に松本清張の小説も読み終えたようだが」
「ええ、『時間の習俗』という小説を読んだのですが、この小説は昔から読みたかった小説のひとつです」
「『ゼロの焦点』『Dの複合』『眼の壁』とこの小説を上げていたね」
「その3つの小説はいつ興味を持ったか定かでないのですが、この小説は写真のフィルムのトリックがあると高校生の時に在籍していた写真部で話題になったものです」
「ああ、犯人の峰岡周一が写真好きで彼の犯行に使ったんだったね。アリバイ工作のためにレンズの蓋をしたまま何枚分かのシャッターを切り、それから旅館の女将の写真を撮らしてもらう。フィルム巻き戻して装填し直しそこに俳句仲間で写真マニアの梶原武雄が写した和布刈神社の神事の写真を撮影する。カラー写真をモノクロで撮影するので写真を撮影したことが露見しにくく、なかなかアリバイ工作を打ち破ることが出来なかった」
「ええ、多重露光という技術を応用したわけですが、写真のノウハウ本で紹介されていてわたしもやってみたいなと思ったものでした。でもフィルム1本を無駄にするわけですしズレが生じるでしょうし、うまくできるか疑問だったので自分ですることはなかったんです。それからこの小説にはゲイの男性を使ったトリックもありますが、小説を読み進めていてそれがわかったところでわたしは思わず唸ったものでした」
「そうだね、相模湖の殺人も都府楼址(水城)の殺人も峰岡の犯行だが、そのアイデアというか悪知恵というのがどちらも面白いね」
「女中の発言「色の白い、細面の、ととのった顔立ちで、あかぬけした女」が読者の想像力を逞しくさせたのだと思いますが、まさかゲイの男性が化けていたとは思わないでしょう。それから都府楼址の現場に左手だけの子山羊の皮の手袋を落としておいたというのもあらぬ方向に推理させるのに役立っていると思います。丸刈りに近い頭髪の男性が相模湖の殺人の共犯だと気付いた時は松本清張の小説はすごいなーと思ったものでした」
「そしたら君はこれからも松本清張の小説を読むのかな」
「そうですね。限られた時間を有効に使うためにはやはり面白いとか、読者をうーん、すごいと唸らせる小説をたくさん読むことが必要と思っています。そのためには世界の名作と松本清張の面白そうな小説を読むのがためになると思っています。今は、前から読みたかった『或る「小倉日誌」伝」』が収録された短編集を読んでいます。『或る「小倉日誌』伝』を読み終えたのですが、母と身障者の息子の情愛がやさしく語られていて、もしかしたら松本清張の小説の本質はこの辺りにあるのかとなと思いました。短編集が新潮文庫から7冊出ていますから『砂の器』を読む前にそれを読んでおこうかと思っています」
「そうか、でも西洋文学の名作も読まないと駄目だよ」
「『人間の絆』は、主人公フィリップがようやく辛くてしんどかったターカンベリのキングス・スクールを中途で退学して、ドイツのハイデルベルク(ハイデルベルヒ)でドイツ語の勉強をすることになりました。キングス・スクールでは入学当時から、一部の生徒から足の障害でいじめに遭い、しかもこれといった先生も登場しない。若い校長のミスタ・パーキンスが明るい未来を開いてくれるのかと思ったら、フィリップをうまく教育できなくてオックスフォードに公費で勉強するところを方向転換させてしまいます。そこでフィリップの数奇な人生が始まったのだと思いますが」
「フィリップが敷かれたレールの上を走っただけでは小説として面白くともなんともない。ようやく面白くなり始めたところと言えるだろう。『人間の絆』はペルシア絨毯の謎にフィリップが気付くところがよく取り上げられる。スピノザの『エチカ』から引用したオブ・ヒューマン・ボンデージ(Of
Human Bondage)がそのタイトルなんだが、フィリップがこのあといろいろな人と付き合うのを一時的な絆あるいは束縛と考えてみるのも面白いかもしれない」
そう言うと食事を終えられたN先生は、君はこのあと西側広場の地下にある喫茶コーナーでホットコーヒーを飲むんだろ。一緒に行こうと言われたので、ご一緒したのでした。