プチ小説「こんにちは、N先生41」
私はクラリネットのレッスンを始めた頃から書店の楽譜コーナーや楽譜販売店でクラリネット用の楽譜集やクラシック音楽の楽譜を購入するようになったのですが、レッスンでシューベルトのアヴェ・マリアを教えていただけることになったので大阪梅田の駅前第2ビル2階のササヤ書店でその楽譜を購入することにしたのでした。クラリネット用の楽譜集にいいものが見つけられなかったので、ヴァイオリンと声楽のコーナーでそれぞれ1つずつ楽譜を購入しました。ヴァイオリンはハイフェッツが編曲した楽譜がありましたが、こちらはヴァイオリンの魅力的な音色の基本となる倍音が満載で、クラリネットにはそういう機能がないので別のメロディだけの楽譜にしました。声楽はただ歌詞(と言ってもドイツ語だけですが)があるだけで良かったので、高音、中音、低音が一冊になった楽譜は買いませんでした。レジでお金を支払って店を出るとそこにN先生がおられたのでした。
「シューベルトのアヴェ・マリアも好きだけど、ぼくはグノーのアヴェ・マリアも好きだなぁ」
私はどうしてN先生がシューベルトの楽譜を購入したところであると知っているのか不思議に思いましたが、ツッコミを入れずに話を続けました。
「ぼくは、歌曲ではシューベルトが好きなんです。「楽に寄す」「水の上で歌う」「ます」「魔王」「幸福」「君はわが憩い」もいいですし、歌曲集の「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」も大好きなんです」
「シューベルトの歌曲はちょっと暗いんだが、きれいなメロディを味わうだけならいいんじゃないかな。ところで『人間の絆』はどこまで読んだのかな」
「フィリップはパリで画家になるために美術学校に通いましたが、2年で自分の才能に見切りをつけました。それで今度は医者に成ろうと決意し、ロンドンで医学を学びます」
「そこでミルドレッドとの有難くない出会いがある訳だ」
「そうですね、「痴人の愛」と言われる主人公フィリップの思いが、最初は燻り程度だったのが、小さな火種となり、大きな炎となって燃え上がります。それでフィリップも止めれば良かったのに自家発電して大火事になり、ミルドレッドが大爆発してしまいます」
「ミルドレッドの大爆発となってしまったわけだ」
「ぼくはこの小説を大学生の頃に読んだのですが、ミルドレッドという上背があり痩せ気味だけどスタイルがよく男性にもモテる(ミラーとグリフィスは虜となりました)、一方教養がなく本能のように男性を求め、お金にルーズで家事や子育てが全くできない。言葉遣いは男みたいで人の恩を感じず踏みつけるような女性が脳裏に深く刻みつけられました。その上フィリップのような挑発的なことをしたら、女性は激怒して、シーツやソファや枕にナイフで十字を入れたりズタズタにしたり、鏡、コップ、プディング盆、皿をハンマーで粉微塵にされることもあると怖くなったものでした」
「それは君の考えすぎというものだ。ミルドレッドはあくまでも空想上のティピカルな悪女なんだ。だから恩知らずで、家庭的な興味を持とうとしないし、自らの手で生活費を稼いで自立してやり直そうとしない」
「でも、フィリップにも不手際が数多あると思います。わざとミルドレッドを怒らせているところがあります。それにミルドレッドがいなくなって親切にも深い仲になってくれた小説家のノラに対してもミルドレッドが戻ってきたら、ぷいと捨て去ってしまうのはどうかと思います」
「そうだねえ、ぼくも何度かこの小説を読んだが、この主人公の自分勝手な行動と言うのは何度も首を傾げたものだ.。ミス・ウィルキンソンから懇切丁寧な女性とのおつき合いの方法の説明を受けたのに、パリに絵の勉強に行くと音信を途絶えさせてしまう。縊死したファニー・プライスも煮え切らないフィリップが自分に恋愛感情があると早合点してしまったのかもしれない。ミルドレッドに対しても最初はまるで純真な高校生のような片思いだったのが、だんだん肉欲(キスまでで留まっていると思う)中心の恋愛となって行く。休日に出掛けたり夜一緒に食事をするだけならまだ許せるのだが、フィリップはミルドレッドにその先を要求する」
「自然な成り行きかもしれないですが」
「だが結局フィリップはミルドレッドに逃げられた。ミルドレッドがミラーと一緒にフィリップの前から消えて、ミルドレッドが女の子を生んで戻って来る」
「幼い子を連れて働くこともできず困っているということで、クロンショーが亡くなって空いている部屋に住まわせることにします。ここはフィリップの優しい性格を讃えることもできますが、何と言うお人好しかと思わないでもありません。その後幼い子とふたりの生活は続きますが、ある日ミルドレッドはフィリップの態度(ここはいろいろなことがあって想像力を逞しくさせますが)に愛想をつかして、激怒して、部屋をめちゃめちゃにして家を出ます。これで終わりかと思ったのですが...」
「そうだね、その後フィリップの金銭的援助を受けられなくなったミルドレッドは身を持ち崩して、街頭で客引きをするようになる。そこにフィリップが出くわし、子供が亡くなったことと重症の性病に感染していることを知る」
「そのチャプターの最後で、「これが、最後だった。その後、ついに彼女の姿を見たことがない。」と書かれていて、ぼくは心の底からほっとしました」
「フィリップが株で全財産を失って自分の生活費も捻出できないという事情があったので同居を断ったが、マカリスターがうまく遣り繰って株で大儲けをしていたら、この優しい人の良い紳士はミルドレッドとのよりを戻したかもしれない」
「そうして性病をもらって主人公はいなくなり、ソープ・アセルニーとサリーはがっかりしたかもしれませんね」
「まあ、そのあたり読者をいらだたせたり、はらはらさせたりするのも小説家の腕の見せ所かもしれないから、モームの筋運びには卓越したところがあると言えるだろう」
「でも、ちっとも文学的ではなく、この小説に出て来る三文小説の手法ではないかと思うのですが」
「うーん、ノラが書く小説のことをフィリップはそう言っているが、それは最後まで読んでから決めたらどうかな」