プチ小説「星になったF氏」

天体写真家藤井旭市が2022年12月28日に亡くなられたとの訃報の記事を日経新聞で読んだその夜、福居はなぜかロマンチックな気分になって藤井氏の著書チロの天文シリーズの4冊『藤井旭の天体写真入門』『藤井旭の天体観察ガイド』『藤井旭の天体望遠鏡ガイド』『藤井旭の星雲・星団ガイド』を持って近くの小学校の校庭に入り星空を見上げた。
<ここなら街灯から離れているから、少しだけ星がたくさん見える。昨年11月に郡上八幡に行った時午後6時頃に満天の星が見られた。夏の銀河を見たいと思ったものだ。昨年12月にはふたご座流星群でたくさんの流れ星が見られたと聞く。昨年11月8日には月食が見られたが、来年も10月29日に見られるようだ。最近は火星がよく見える。ぼくがタカハシの100ミリのフローライトの天体望遠鏡を買った年は火星が見られず、そのままになっている。その時に月、木星と土星は見たからそれで充分かもしれないけど火星が見られなかったのは心残りなんだ。仕事が忙しくなって望遠鏡はお蔵入りしてしまった。実家の屋根の上に3メートル四方の踊り場を設けてそこで天体観測をしたり写真を撮ったりしたのだが、それも撤去してなくなってしまったので観測するところがなくなった>
何気なく正面をみると、しゅっと流れ星が流れた。
<天体写真を撮った最初は高校生の頃に友人が住む5階建てのアパートの屋上に登って、固定写真を数枚撮ったのが初めだ。だけどこの時は星が白黒の濃淡で半円を描いているだけで興味を持てなかった。興味を持ち始めたのは高校1年生の時に見たウエスト彗星だろう。それから月食を見たり、天体写真を見たりして天体観測への憧れはふくらんでいったが、2つ目の大きな出来事としては、ヘール・ボップ彗星だろう。この彗星がウエスト彗星なみの大きさで尾が長くて形が美しいとの話を聞いた時、にわかに以前から持っていた願望、天体望遠鏡で天体観測、それをするにはどうすればよいかの模索を始めたのだった。まずはテレスコハウスで天体望遠鏡を購入して最接近の頃までに手技を身につけておこうと思ったが、天体望遠鏡は発注生産で6か月後に出来上がるとのことだった。その頃には最接近を通り過ぎて3等星くらいになってしまうということでがっかりしたのを覚えている。一生に一度のチャンスを逃した感じだった。それくらい大きな彗星と出会える機会は少ないんだ。ぼくは仕方なくヘール・ボップ彗星の観測は諦めて、藤井旭さんの本を読んで週末に天体観測をはじめたのだった。といってもセッティングだけで3時間はかかるので、晴天の日の午後8時頃から準備を始めて午後11時頃から翌朝の4時頃まで観察するのを数回しただけだった。正直言って天気頼みで体力を使うし、天文知識が皆無のぼくにとっては骨折り損のくたびれ儲けに過ぎないなと思ったものだった。それでも赤道儀がまともに動いて月や木星や土星が見られると一瞬だけ赤道儀付きの天体望遠鏡を50万円出して買ってよかったと思ったものだった。結局、仕事が忙しくなって、ヘール・ボップ彗星を探したり、月のクレーターを観測したりはできなかったが、月食の写真も撮ったし、定年後に観測場所が確保できれば再開しようと思ったものだった。藤井氏の著作はそんな初心者のぼくにやさしく天体観測の方法を詳らかにしてくれたのだった。天文ガイドの読者が撮影した天体写真も興味深かったが、藤井旭さんの望遠鏡や星雲・星団などの説明は観測を継続するための燃料となった。藤井旭さんの著作を読まなかったら、ヘール・ボップ彗星が遠くに行ったから、天体観測はもうやめようと考えたかもしれない。『藤井旭の星雲・星団ガイド』に掲載されているM31アンドロメダ星雲やM10球状星団が見えたような気がして、土星や木星を見た後もしばらく天体観測を続けたのだった。日経新聞の記事を読むと那須高原に1969年私設の「白河天体観測所」をつくったとあるが、ぼくは福島県白河市だと思っていた...>
その時、突然正面から火球がやって来て福居の前で止まった。火はやがて鎮静化し谷さんが現れた。
「び、びっくりするじゃあないですか。でも今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ、そやけど間違った認識をしている人は正さなあかんと思うてな、ほんでーここに来た」
「と言いますと」
「白河市は栃木県と隣接していて那須高原にも隣接しとる。そやから「那須高原に白河天体観測所をつくった」というのも間違っていないと思う。ほんでー」
「他にもあるのですか」
「あんたの天体観測は行き当たりばったりでもったいない気がする。タカハシの天体望遠鏡くんも押し入れで泣いとるで」
「でも、赤道儀を動かすためにはバッテリーを動かさないと駄目で大がかりになりますし、高槻市内の公園で天体観測をしたら大勢の人がやって来そうな気がします。それにペーパードライバーのぼくには天体望遠鏡などの機材をそこまで持って行くのが大変です。肉眼で月食等を鑑賞するくらいでいいんじゃないかと思います。でも...」
「でも、なんや。なんかわしに期待を持たせるようなええことがあるんか」
「ハレー彗星とは言わないまでもウエスト彗星やヘール・ボップ彗星に匹敵するような巨大な彗星が出現したら、ぼくの胸に燻り続けている天体観測への情熱が再燃していそいそと観測の準備を始めるかもしれません。少なくとも機材は残しているのですから」
「そうか、そういう気持ちがあるんやったら、わしも頑張ってあんたの願いが叶うよう働きかけてみるわ」
「そうですか、期待...え、それはホンマですか」
「わしの辞書に不可能はないから、近く...まあ、楽しみにしとき」
そういうと谷さんはいつものように胸を張って天を仰ぎ見ると、シャッという声を発して離陸した。福居はしばらくあんぐりと口を開けて、谷さんの姿が見えなくなるまで見つめていた。