プチ小説「いちびりのおっさんのぷち話 今できることを悔いのないようにやっておこう編」

わしが大学を卒業する頃までは三公社五現業という言葉が生きとって、特に三公社というのは頻繁に新聞に上がっていた、三公社というのは日本専売公社、日本電信電話公社、日本国有鉄道のことで、その後民営化されて、日本たばこ、NTT、JRとなった。父親が国鉄職員やったから、民営化前と民営化後のことは身近に感じてた。といっても父親は民営化の1年前に早期退職したから、今国鉄のことで思い出すのは、物心ついた1960年代後半から1980年代前半の20年ほどのことなんやけどな。父親は工場で電車の点検をやっとったようやが、とにかく毎日午後5時には工場を出て近くの立ち飲み酒屋に行って安酒飲んで午後8時~9時に帰宅する(巨人が強くなった頃から自宅で晩酌しながらテレビ観戦というのが多くなった)という規則正しい生活をしとったと記憶しとる。また休日は会社に出ることはなく、趣味(野球を見ることとゴルフが趣味やった)や家庭菜園なんか好きなことが出来た。そうは言っても、民間の会社員と比べると所得の格差は歴然としていて、それにわしの家は3人兄弟やったから、親父が裏山を耕して、サツマイモ、ジャガイモ、ダイコンなんかを栽培して、母親が本屋でパート勤務をしていたけど貧乏な家やった。それでも母親がお金を工面して家族旅行(九州、東京箱根、日光那須塩原)に行くことができたし、高校までの学費は遣り繰ってもろたし、わしは大学の授業料、妹は専門学校の学費も出してもろた。母親は高校卒業して信用金庫で事務員をしていたから、自分の家のお金の管理もしっかりしていてそういう神がかり的な金銭管理ができたんやろけど、今となっては感謝の言葉しかない。そういう母親の我が子への思いやりに甘えとったわしもある日、両親にも寿命と言うのがあるからこのままの状態でいつまでも両親と暮らしているわけに行かんから、いっぺん外に出て暮らしてみようと思うたんやった。それはわしが42才の時やった。その時までのわしは母親がしてくれるからちゅーて自分の部屋の掃除以外はほとんどせんかった。炊事、洗濯は全部母親がしてくれとった。一人で公団住宅住まいするようになって、ご飯作ったり、洗濯機回したり(わしは物干しに干すところを見られたくないからから、最初から乾燥機付きの洗濯機や)、2~3週に1回やけど全室に掃除機を掛けるようになったけど、それまでの夕飯まで自分の部屋でテレビを見て、父親、母親と一緒にご飯食べて、父親と一緒に酒を飲んで、風呂に入って午後11時頃に寝るという生活から大きく変わった。ほんでー毎日が忙しくなってへとへとになるかと思うたんやが、かえって時間が出来て、読書や音楽を聞くための時間が出来て来た。平日の仕事帰りや休日に目的もなくぶらぶらすることもなくなった。そうしたらなんかいろいろやってみたいと考えるようになって、筋トレを始めて山登りや西洋文学の本を読むことになったわけやが、船場も40才の頃に親から独立してから1年して槍・穂高登山、ホームページ、レコードコンサートの開催を始めよった。わしはこのことを、わしのまねせんとってと昔から言いたかったんやが、言いそびれて来た。今から言うたろと思うんやが、おーい、船場ーっ、おるかーっ。はいはい、親からの独立のことですね。実際、ぼくも今思うに、これほど自分のためになることをなんで躊躇していたかと思うんです。もっと早く始めていたらよかったのになと。そうは言うても後に持ち家が持てたのもこの頃母堂はんがこつこつ貯金してくれたからで、それがなかったら中古の13坪の家とは言え買えんかったやろ。仰る通りだと思います。半分を支払って残りをローンにしたのですが、今も賃貸住宅に住んでいたら毎月10万円の家賃がかかるわけですし、とても途中退社して年金まで貯金で食つなぐというわけにはいかなかったでしょう。4月に64才になるので年金の一部が支給されますが、給料が極めて安かったので掛け金も極めて少なく年金は少額です。だからこれから先もお金がかかることはできないでしょう。昨年7月に退職して、8月、9月は準備期間と言えますが、10月には母校立命館大学の図書館に通って、小説を読んだり、小説を書いたりしています。このまま順調に行ってくれたらと思っていましたが、12月11日に母親が緊急手術を受けて入院しました。7年前に父親が亡くなって母親は一人で暮らしてきました。自分で食事、洗濯、排泄をしてきましたが、手術後、膝、腰の機能が戻らず指先がしびれているので、リハビリ病院の経過が思わしくなければ、私が身の回りの世話をしなければなりません。認知症がないのでできるだけ自分の家で過ごしてほしいと願っているからです。そうか、お前貧乏やから頻繁に訪問看護とかしてもらうわけに行かへんからなぁ。排泄、食事、洗濯が自分でできれば助かるのですが、そこまで回復できるかがこれからの私の活動を大きく左右します。それが可能であればほぼ今まで通りの活動が可能ですが、例えば排泄が自分でできないということになると、ずっとそばにいてあげないといけないということになります。おむつやポータブルトイレではあかんのか。やはり貯めることが出来る量が限られるので2、3時間に一度は処理してあげないと駄目でしょう。人工肛門なのでそれの定期的な交換も必要です。56才の時に父親ががんと診断されて以来、活動が制約されて来ましたが、その後、『こんにちは、ディケンズ先生』の第2巻、第3巻、第4巻を出版しましたし、クラリネットのレッスンは昨年の10月に再開しました。以前のように筋トレをして槍・穂高登山を続けるわけには行きませんが、ライカを携帯して小旅行をすることは可能ですから、母親が回復して戻ってきたらちょっと遠方まで行こうかなと思っています。そうして落ち着いたら、LPレコードコンサートの再開も考えたいと思っています。そうか、お前案外いろいろ考えとるんやな。遅咲きの花が開花するよう祈っとるわ。それはちょっと難しいかもしれませんが、いい方向に向かうようこれからも頑張りますよ。そうか、がんばりや。