プチ小説「座談会「船場氏の10年後」について考える」

「こんにちは、「青春の光」で橋本さんの相手方をしている田中です。今日は船場さんが、今の自分、10年前の自分、20年前の自分とで腹筋を割ってではなく腹を割って話をしたいということでこの場を設けました。なお本日は最近出場機会がないと嘆いておられた、スキンヘッドの運転手たこちゃんこと鼻田さんもご同席していただきます」
「ほんまに、船場はんも最近いろいろと忙しいのはわかるねんけど、わしらここに出てこそ脚光が当たるんで、出してもらえへんのやったら暇でしょうないわ。いちびりさんはよう出てはるんで、うらやましいわ」
「いいえ、ぼくはちっとも忙しくはないです。ただ以前のように自分の周りが面白いことで一杯で、さて次はどれを取り上げようかという状況でなくなったのです」
「というと、むかしはネタがもうたまらん、もうそれくらいにしてというくらいあったのか」
「今のだとちょっと変なことを考えてしまいそうですが、仰る通りです」
「以前というのはいつ頃のことなんかな」
「そのピークが10年前と20年前にあった気がします」
「『こんにちは、ディケンズ先生』を出版してしばらくしてからとホームページを始めて暫くの頃やな」
「そう、10年前は『こんにちは、ディケンズ先生』を出版して、ディケンズ・フェロウシップの会員にさせていただき、たくさんの大学の先生と懇意にしていただきました。若手の先生と月一イギリス文学についてメールを交換したこともありました。2013年の秋には秋季大会でミニ講演をさせていただきました。春季大会、秋季総会では先生方の発表を拝聴させていただき、懇親会では私にとって雲の上の人たち(主に文学部の教授)から声を掛けてもらいました。私の本も出版社から大学図書館に代行発送してもらい90以上の大学図書館に受け入れてもらいました。地道にイギリス文学に親しんで来て本当に良かったと心から思ったものです」
「で、20年前はどうなん」
「ホームページの始まりはクラシック音楽のエッセイを某音楽出版社に持ち込んだところ、自分のホームページで公開してはと言われたのが切っ掛けでした。たまたま職場にホームページを趣味でされている人がいて、ご指導を受けて2002年3月にホームページをアップロードしたのですが、それは今から21年程前ということになります。ホームページの内容を充実させようと先のエッセイの他に名曲喫茶ヴィオロンのマスターに交渉してLPレコードコンサートのを開催することにしました。第1回は2002年4月28日でした。さらに自分で撮った写真や自作の小説を掲載してより充実した内容にしていきました。大分先になりますがディケンズ・フェロウシップ関連では、イギリス文学を読んでの感想文、プチ朗読用台本、ディケンズの長編小説の登場人物紹介を新着情報に掲載していただきました」
「ほんまに、ちっともお金にならんのに、ようやるなあ」
「まあ、趣味ですからね。本業だったら、採算を考えないといけませんし自由に自分の意見も言えなかったと思います」
「ほんでー、船場はんは10年前の75キロをキープしていた船場はんと19年前の筋トレを毎日3時間近くして70キロくらいの船場はんをここに連れて来たけど、なんか言うたって」
「10年前だと、まだ髪の毛は黒々としていたんですね。58才くらいから白髪が目立ち始めて今では真っ白になってしまいました。体重も85キロ前後ですから、ええところなしですね」
「まあ、そんな悲観ばかりしててもしゃーないから、なんか言うたって、最近、たぬきを見たとか」
「昨日、近くのどぶにいるのを見ましたがそれは置いといて...最近の私を見て、何かアドバイスがありましたら仰っていただきたいです」
「そうですね、10年前と言ったら2011年10月に第1巻が出てたくさんの大学図書館に受け入れられて、全国の公立図書館に出掛けて寄贈をお願いしていました。北海道から九州まであちこち出掛けました。本を出版して本当に良かったと思いました。ディケンズ・フェロウシップの新着情報に掲載してもらうためにプチ朗読用台本などを休日に作成していました。それと並行して『こんにちは、ディケンズ先生』の続きを書いていました。今まで何の取得もなかった自分がこれほど人を楽しませることができるんだと思い、暫くは小説で頑張ろうと思いました」
「20年前の船場はんはどうやった」
「20年前からしばらく経過しますが、ネタづくりのために2003年から登山を始めました。切っ掛けは2002年夏に槍沢ロッジに置いてあった単眼鏡で槍の穂先を見て登りたくなったからですが、ぼくの登山は槍・穂高縦走に特化したもので、それ以外は八ヶ岳と富士山にしかいっていません。結局、7回槍・穂高登山をしたのですが、今から10~20年前というと登山とLPレコードコンサートが中心でしたね。他にライカで楽しんでいただける写真をと思い、エルマリート21という超広角レンズを購入して京都のお寺を沢山撮影しました。そうそう、以前から興味があったクラシック音楽の作曲家の評伝を読んで感想文を書いたりもしていたなあ」
「そういうのもみんなホムペを充実させたかったからなんやろけど、お二人から行き詰っている船場はんにアドバイスをいただけますか」
「ホームページをはじめて1年経過した頃はいろんなことをしたくてうずうずしていました。ちょうど手当がついて金銭的ゆとりができて(でもこの手当は12、3年でなくなりましたが)、あちこち旅行ができるようになりました。登山もその一つだったと思います。またこの頃はわりと自由に夏休みが取れて、毎年4日掛けての登山ができました。2010年頃から自由に夏休みが取れなくなり、今考えると槍・穂高登山は諦めるしかなかったんだろうなと思います。金銭的ゆとりと夏休みの登山は2010年の秋頃に上司が変わって消失したと言えます。その頃から1時間くらい早く家を出て職場の近くの喫茶店で西洋文学を読むようになったのですが、これがプチ小説を書き始める切っ掛けになり、『こんにちは、ディケンズ先生』の出版に繋がったのだと思います」
「ほんじゃあ、それを引き継いで10年前の船場はん話してちょーだい」
「それまでいくつか書いていた短編小説を、もう少し短くして内容の濃いものをと考えて書き始めたのがプチ小説でした。2010年に掲載し始めたのですが、文豪ディケンズが主人公の夢に出て来る「こんにちは、ディケンズ先生」は書いていて楽しく、もしかしたら企画出版してもらえるかと思い、しばしば読売新聞に広告が掲載されていた近代文藝社の小説の査定を依頼したのでした。結果は企画出版のAではなかったのですが、自費出版だが流通するというBだったので、親を説得して『こんにちは、ディケンズ先生』を出版しました。出版してよかったことは先程述べた通りです。ぼくが頑張っていた当時はお金のやりくりはしんどかったですが、LPレコードコンサートのお客さんもなじみのかたができて、ディケンズ・フェロウシップの先生方とのおつき合いも楽しくなって充実していた頃と言えます。今の船場さんを見て、意見を言わせてもらうとしたら、本当に今は厳しいですが頑張って下さいとしか言えないですねえ。コロナ禍のせいで『こんにちは、ディケンズ先生』第3巻と第4巻は日の目を見ていません。コロナ禍でLPレコードコンサートは開催できなくなりましたが、仕事がきつくなって非常勤になった頃から年4回の東京でのLPレコードコンサートは難しくなったと言えますね。これは出版して恩恵がある、東京に行って何か良いことがあるということと縁がなくなったと言えます。その大きな損失のリカバリーもないのに細々とプチ小説や懸賞応募の小説を書いているというのは気の毒に思います。10年前のぼくもそうですし20年前の船場さんはもっともっと楽しい毎日を過ごしていて、希望に溢れていました。それが今は...」
「みなさん、いろいろ励ましていただいて恩に着ます。このお礼は10年後の私から華やかに賑やかに堂々とさせていただきたいと思います。今までの私の経験から地道にやっていればいつか日の目を見るということを知っていますので、今は厳しくともその日が来るまで頑張り続けます」
「そら、頑張ったらええと思うけど、若い頃のように結果がすぐに出んと思うからあわてんとのんびり行くんやで」