プチ小説「こんにちは、N先生 48」

私は浪人時代に西洋文学を好んで読むようになり、わからないながらも最後まで読むようにしてきたのですが、日本文学であっても西洋文学であっても擬古文で書かれてあるとお手上げになってしまいます。漱石の草枕、鴎外の舞姫とか訳文が擬古文で書かれているものは最初から読むのを諦めてしまいます。今までに何度か読んでみようとしましたが、日常会話で出て来ないような単語、熟語が出て来ると主に電車内で文庫本を読むのでそこで辞書を見るわけにも行かずわからないまま読む進むということになってしまいます。それが頻繁になると筋を追うどころか穴だらけの文章を繋げて解釈しなければならないことになり、これでは理解して読み終えることは不可能だなと諦めてしまうのです。それに対して漱石のほとんどの作品、星新一、井上ひさしの小説、平易な訳語で書かれた西洋文学は内容がよく理解できて読んでて楽しい小説ということになるのです。それから書かれている文章は難解ではないが作者の言いたいことが理解できず、途中で読むのをやめた小説というのもいくつかあります。これはフランス文学に多く、『失われた時を求めて』は最後まで読み終えましたが、何が言いたいのかは最後までわかりませんでした。スタンダールの『パルムの僧院』は我慢して50ページ読みましたが、全くとっかかりがなく自分の読解力のなさを思い知らされて断念しました。まだ読んでいませんが、多分、『赤と黒』も同じことになるだろうと思います。フランスには、ヴァレリー、ヴェルレーヌ、コクトー、ボードレール、マラルメ、ラディゲ、ランボーなど興味深い詩人がいますが、今までに完読できた本はありません。というより文庫本を手に取ってパラパラとページをめくることもなかったのです。こういう好き嫌いは面白い作品を読む機会を減らすのでできれば改善したいのですが、先日読んだ、サン=テグジュペリの『夜間飛行』(堀口大学訳)の文庫本の中にあった彼の処女作『南方郵便機』はどうしても理解できませんでした。なぜかというに(堀口先生はなぜならというところをこう訳されています)誰誰が何々をしたということが書かれておらず、ただ透明人間がその時の状況をメモ書きして文章にしたようなそんな文章が延々と続くからです。普通しっかりとした意志を持った主人公が考えて行動した内容を詳しくわかりやすく読者に説明して読者に興味を起こさせて物語は進んでいくのですが、『南方郵便機』は状況の説明があるだけで主人公が何をしたいのかさっぱりわからず、楽しめないのなら他を読むかということになったのです。終わりの解説のところで堀口先生は、『南方郵便機』は『夜間飛行』より精読を要求すると書かれていましたが、辞書やネット検索などを駆使してまた物語の背景を調べた上でというのならそれは仏文専攻の学生や研究者のすることで私のように平凡で、楽しみだけで読書をしている凡人には無茶な話ということになるのです。もし堀口先生がちょっとだけでも脚注をつけて下さっていたら助けられたかもしれませんが、残念ながらありませんでした。そんなことを考えながら一条通を歩いていると、梅泉堂にN先生がおられました。先生は、桜餅3個と焼き餅2個それから赤飯を買われました。私も桜餅を3個買いましたが、それを鞄に入れるとN先生は私に話し掛けられました。
「君はあれから松本清張の『渡された場面」と『水の肌』を読んだようだがどうだった」
「どちらも楽しんで読みましたが、『渡された場面』は最初の60ページほどは退屈でしたが、警察の人が犯人の家に来たあたりから面白くなって残り170ページほどを一気に読みました」
「そうだね、推理小説にはそうさせる力があるが、『夜間飛行』なんかを味わいながらゆっくりじっくり読むのもいいもんだよ」
「『夜間飛行』は嫌いではないですよ。ひとりの郵便機のパイロットが嵐に遭って最後は救助されずに亡くなってしまうのですが、そのパイロットの目を通して描かれる空の表情が詩情を誘います。このパイロットの周りの情景と夜間貨物飛行機の経営者の心の中の描写が詩的でしんみりとして心に残ります」
「経営者リヴィエールは多くの人の思いを乗せた書簡を少しでも早く配送することを自分の使命と思って夜間に飛行機を飛ばすのだが、機体自体が小さなもので性能もよくないししばしば悪天候に見舞われる。飛行士の安全を考えねばならないが、経営のことを考えると多少は悪天候であっても夜間に飛行機を飛ばさなければならない」
「そこらあたりの心情は会社経営や部下を持つ人たちの共感を呼ぶかもしれません。リヴィエールの部下のロビノーへの厳格な態度やパイロットファビアンを助けようとしてリヴィエールが指示を出すあたりはまだ軌道に乗っていない中小航空会社経営の厳しい状況がわかるのですが、ファビアンを助けることはできませんでした。しかし経営者リヴィエールには他のパイロットや社員の生活を守って行かねばならず、ファビアンの事故をしっかりと受け止めて今まで通りの経営を続けざるを得ないのです」
「ファビアンがブエノスアイレス近くで暴風雨に遭い燃料がなくなり墜落することやリヴィエールの部下への厳しい態度はほろ苦い思いを齎せるが、サン=テグジュペリ自身が非業の死を遂げたということで哀しさがありそれがブレンドされて独特の何とも言えない読後感を醸し出しているね」
「そうですね、『夜間飛行』にはそれらが合わさって、素晴らしい文学体験をした気持ちになります。良い詩、雄大な詩を読ませてもらったというような」
「100ページ余りの『夜間飛行』を読んだだけでもそれだけの感動があるのだから、これからもいろいろ読んでみるのもいい。あまり興味を持てなかった小説も、読んでみたら深い感動を齎すということもある」
「そうですね、とにかくこれからも西洋文学を中心にたくさんの本を読むことにします」