プチ小説「日曜日の散歩」
私は高槻市民になってもうすぐ37年になるのですが、転居してすぐは摂津峡や樫田など北部を自転車で巡ったりしたものでした。当時は摂津峡の近くの塚脇というところで寒天干しが見られたものでしたが、それからしばらくすると地球温暖化という言葉が飛び交うようになり、だんだんスキー場がなくなっていきしばらくして寒天干しもみられなくなったのでした。今年は1月になって寒い日が続くのでその頃に戻った気がしますが、暖かい冬に慣れてしまった私は寒い朝はない方がいいと考えるようになったのでした。こんなどうでもいいことをじっくり考えるようになったのは、43~61才の忙しかった頃と比べると信じられないくらい暇になったからです。その頃は日々の仕事がそこそこハードだったうえに、いろいろな趣味をわくわくしながら楽しんでいたのです。槍・穂高の山登りは43~51才の頃で終わりましたが、その後『こんにちは、ディケンズ先生』第1巻~第4巻までの出版で61才まで楽しむことができました。その合間を縫って、LPレコードコンサートの開催、自著を寄贈するための公立図書館巡りも60才まで続いていました。定年で一時金が出たため、ライカM9を購入して、『こんにちは、ディケンズ先生』の第3巻と第4巻を出版したら、いろんなところに出掛けて写真を撮りまくろうと考えていましたが、すべてコロナ禍でもろくも崩れ去ってしまいました。そうこうするうち仕事がきつくなって、非常勤職員になり、昨年7月末で仕事もやめました。こうなると趣味に注ぎ込む資金というものもなくなり、今のところ2年半ほど休止していたクラリネットのレッスンを再開させたくらいで、LPレコードコンサートの開催も東京までの旅費、ホテル代、弁当代、ディスクユニオンで中古レコードを購入するためのお金を合わせると10万円位になるので、もしマスターに許可してもらっても年1回できるかどうかなので再開するかどうか躊躇しています。そういうことで最近はクラリネットのレッスンの他は年1回の日帰り旅行くらいしか楽しみはなく、ウイークデイは立命館大学図書館で懸賞小説の原稿を書いたり、西洋文学と松本清張の小説を交互に読んだりしています。最近母親の入院で2つの店(塩元帥、ぎょうさの満州)を偶然知ることが出来て、わざわざ東京に行かなくても近所にもおいしいものを食べさせてくれる店があるかもしれないと思うようになったのでした。そんなことを考えながらホームセンターコーナンのタコ焼き店の前でタコ焼きを食べていると後ろから声を掛けられたのでした。元気ないなあと言われて後ろを振り向くと、そこには谷さんがおられました。
「ああ、あなたでしたか。インフルエンザもコロナもかかっていないのでぼくは元気ですが」
「そんなことないやろ、目がうつろで覇気がない。頭髪が薄くて白っぽいグレーやから70才くらいに見える」
「そうなんですね、でも何かしたとしても改善できるわけでもないし...ウィッグや毛染めもお金がかかりますし」
「いや、わしが言うとんのはそいうのやないんや。気持ち一つで世界は変わるいうことや」
「そうかもしれませんが、63才のわたしが何をすればいいのでしょう」
「それはまずは今までの反省から始まるんとちゃう。そこからヒントを得て未来に繋ぐ...」
「そういう無駄な努力につきあってもらえるのですか」
「無駄なは余計やけど、そういうことや。何か反省することはないか」
「反省ですか。例えばどんなことですか」
「例えば幼少の頃とかに影響されたけど、こんなこと聞かなんだらよかったとか」
「昔のことは後で思い出しますが、昨日ある芸能人がラジオでの発言は引っ掛かるものがありました。昔の私ならそうやなーと思うてたと思います」
「ほう、それはどんなのや」
「モーツァルトは様式ばかりで感情がないからつまらない音楽、ショパンは感情があるから好きやと言うてたんです」
「まあ、そういう見方をする人もあるやろな」
「そうです、普通の人ならそうかもしれんなで終わるのですが、私の場合ラジオから流れた言葉は重みのある言葉として心に(脳裏に)刻まれることが多かったのです。中学生から浪人2年目までは関西のお笑い芸人のラジオ番組ばかりを聞いていましたから、彼らの考えに傾倒しました。今は変わっていますが、当時はアンチ東京できばっていた芸人が沢山いました。彼らは演芸だけでなく芸術、放送、言論すべての面で東京より関西が優っているというようなことを言っていて、まだ世の中のことがよく分かっていなかったわたしの脳みそを間違った方向へと導いたのでした。浪人3年目から予備校通いを始めたこともあって、そういった放送を一切聞かなくなりクラシック音楽ばかりを聞いていると冷静に物事が判断できるようになり、やはり多くの人に認められた東京の文化、芸術はすぐれている。関西にも少しはいいものがあるという考えに変わりました。モーツァルトが嫌いという発言も関西人によくある自分にないものを悪いものと遠ざける意図を持った、客観的な判断が出来ない人の中途半端で混乱や間違った理解を誘発させる考え方なんだと思います。モーツァルトは素晴らしいけど中には形式ばかりで心に沁みて来ない音楽もあると言うならわかりますが、頭から、モーツァルト嫌いなんじゃというのはどうかと思うのです。同じように東京の文化、演芸すべてを関西のそれに比べて劣ったものと言い切るのはどうかと思うのです」
「それで何か影響があったんかいな」
「そうですね、それで大学2年くらいまでは東京に行きたいとは一度も思ったことがありませんでした。それが徐々になくなって行き、30代中頃には年に3~4回は東京に行くようになりました。最初はこれといった目的はなかったのですが、レコード収集、名曲喫茶巡り、レコードコンサートの開催とだんだん目的をもって東京に出掛けるようになりました。そうして思いました。東京は日本の文化の中心でいろいろ学べる掛け替えのない場所で、そこに行くだけで何かためになる吸収すべきものがあると」
「まあ、あんたの場合は極端に走りがちやけど言うことは外れてへんと思うわ。他に何かあるか」
「これは大学時代の恩師、ドイツ語の先生から教えてもらったことですが、日経新聞は面白いということです」
「日本経済新聞やろ、経済のことばかり書いてるんとちゃうん」
「ぼくもそう思っていたのです。天声人語と社説で人気のある朝日新聞、発行部数が多くて庶民的な読売新聞、右寄りの産経新聞、左寄りの毎日新聞という認識で、日経新聞を読もうと考えたことは一度もなかったのですが、東京にしばしば出掛けるようになった頃から日経新聞を購読するようになったのです。最初は、最終面の私の履歴書、文化、交遊録なんかにしか興味がなかったのですが、他にも各界の著名人が自ら原稿を書いた自伝やエッセイ、街の文化、グルメ情報など多岐にわたっていて、日経新聞が新聞の中に雑誌の面白いところを取り入れた情報誌のようなものであることに気付いたのでした。実家では〇〇新聞を購読していましたが、番組欄、スポーツ蘭、三面記事、地方版、人生相談しか読まず、文化欄他にはまったく興味が持てなかったのですが、日経新聞はそれを読んで一度やってみたいとか行ってみたいと考えた記事がいくつもありました。ぼくの人生を豊かにしてくれた新聞だと感謝しています」
「ということは、東京志向と日経新聞がよい影響を与えたということか。他にもあるんやろ」
「もうひとつの大きな影響を与えたことは、槍沢ロッジの近くの広場に設置してあった単眼鏡で槍の穂先を見たことでしょう。単眼鏡を覗くと槍の穂先にある梯子が見えて、しばらく覗いていると梯子を登ったり下りたりする人が見えたのです」
「天気が良かったんやな」
「ええ、快晴でした。ぼくはそれを見て、なんだか槍ヶ岳に登ることがそんなに大変なことでもないんじゃないか。筋力をつけさえすれば、初心者でも登山は可能ではないかと思ったのです。快晴の中自分の目で槍の穂先を見て、手を伸ばせば手が届く、周到に準備して実行すればやり遂げられると考えたのでした。それから1年間鍛えて槍ヶ岳に登り、その次の年には穂高方面まで足を伸ばしたのは今では壮年時のよい思い出として残っています。今の体型、体力ではとても無理ですが...。何となく足を伸ばして槍沢ロッジに行ったことは、8年で7回の槍・穂高登山をホームページのネタにすることができましたし登山好きの人と共通の話題を持てるようになりました」
「多分、福居さんの場合、何かの切っ掛けでのめり込んだことが他にもあるんやろ」
「あとふたつあるんですけど、言ってもいいですか」
「ええよ」
「実は、今から15年程前、通勤の時にぼくに声を掛けて、天気と自分の家族の自慢話を繰り返す職場の人がいたのです。それがたまにならよいのですが、ほとんど毎日2ヶ月ほど続きました。それで私の好きな朝ぼーっと土手を歩いて通勤していたことが妨げられるようになりました。これは精神衛生上よくないと考えたぼくは1時間ほど早く家を出て駅近くの喫茶店で大学生の頃に購入して未読だったディケンズの『リトル・ドリット』を読み始めたのです。そうすると読書が捗り、ハードカバーも気軽に読めるのでどんどんどしどし西洋文学を読むようになったのでした。そうして2ヶ月ほどして主人公の夢の中に文豪ディケンズが現れ、自作の小説について語ったり主人公の人生相談に乗ったりする『こんにちは、ディケンズ先生』を書き始めたのでした」
「そうか、その上司が執拗にあんたに声を掛けんかったら、何も起こらんかったんやな。あとひとつはなんや」
「ぼくは最初の頃ほとんど目的なしに東京に通っていました。それでもいつしか中古レコード漁りと名曲喫茶巡りがその目的となりました。ヴィオロンのマスターは親切な人でぼくが持ち込んだレコードをリクエストがなければ掛けてくれました。しばらくしてヴィオロンでライヴをしていることを知り、ぼくもやらせてもらえたらいいなと考えるようになったのでした。ぼくがそのことをマスターに言うと、チラシ(フライヤー)を作り、解説をするならしてもらってもいいと言われたのでした。それから1年ほどしてホームページを始めたのですが、ほぼ同じ頃にぼくが43才の頃ですがヴィオロンで第1回のLPレコード・コンサートを開催したのでした。ヴィオロンに何度も通ったこととマスターの一言が開催に結びついたのでした」
「そうか、いろいろやったけど、みんな何かの切っ掛けがあったから始まったちゅーわけや」
「そうです、そやから、もう一回でも二回でも楽しいことをやりたいと思う切っ掛けがあらへんかなと思うんです」
「まあ、家でじっとしててもしゃあないから、機会があったら文化の中心東京に出掛けてみることやな。そやけどお母さんの病状が落ち着かんことには動けんやろ」
「そうですね、そうして今から5年前の生活に戻ることですね」