プチ小説「こんにちは、N先生 49」

私は大学図書館から自宅に帰る際に立命館大学前午後3時頃発の京都市バスを利用するのですが、今日は10分程早く図書館を出ました。いつもなら3時過ぎの12番のバスに乗るのですが、今日はバスの駐車場から55番のバスが立命館大学前のバス停に滑り込もうとしていたので、私は信号が変わると小走りに走り出しました。そうするとすぐに後ろから声がしました。
「そんなことでは、バスに乗れないよ。しっかりと走らないと」
それはN先生の声でした。
「君ィ、今日は早く帰って、お母さんから受け取りを頼まれた着払いの高麗人参サプリメントを受け取らないといけないんだろ。さあ、速く走らないと間に合わないよ」
N先生はかなり息をはずませていたのですが、それだけのことを言うと全力で走り出して私を追い抜いてバスに走り込みました。そうして入口で手を差し伸べて私をそのバスに招き入れました。バスの中は大勢いて、N先生と私は席に座れませんでした。
「さあ、これで君も郵便物が受け取れるね」
私はなぜN先生が着払いの郵便物のことを知っているのか不思議でしたが、何も言いませんでした。落ち着いてみると料金の表示板がいつもと違っていて整理券が必要なのが分かり、JRバスに間違って乗ったことがわかりました。わら天神のバス停で下りるとバス料金が230円でこの後の55番の市バスに乗れると判断した私はN先生に、次のバスなら座れますよと言ってバスを下りました。暫くすると55番の市バスがわら天神のバス停にやって来たのでN先生と私はそれに乗車しました。
「でもよく考えると、230円余分に払わないといけないから勿体ない気もする。あのままでも良かったんじゃないか」
「でもJRバスは北野白梅町、円町経由で千本丸太町に出ますから、先生が住んでおられた千本中立売は通りません。ノスタルジーに浸れる瞬間を逃してしまいますよ」
「それもそうだけど...ところで最近は、君はどんな本を読んでいるの」
「一昨日は『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み終え、昨日は松本清張の短編集『黒い画集』を読み終えました」
「そうか、君は西洋文学と松本清張を交互に読んで、頭の中でシェイクしているんだったね」
「別にシェイクはしていません。西洋文学がたまに面白くなくなることがあり、その時は松本清張を読んでます。松本清張が面白くて半日その後も読み続けると言うことがありますが」
「まあ、両者がうまくかみ合えば傍から文句を言う筋合いはないからね。『黒い画集』は松本清張の短編集の中で一番面白いと言われていて私も読んだが、君はどうだった」
「山登りの愛好家で悪い人が出て来る『遭難』から始まって、氷で冷やした水風呂に入れて心臓麻痺を起こさせるというほんまかいなと突っ込みたくなる『坂道の家』までどれも読み始めると止まらなくなる佳作が続きました。ドラマ化、映画化された作品ばかりというのも頷けます。600ページ余りありましたが、あっという間に読み終えました」
「『天城越え』と『凶器』は迷宮入りした事件の後日談といった内容ですっきりしないが面白いと思う。逆に『寒流』は最後に巧みな罠で仕返しをするところが何かすかっとさせる」
「先生もすかっとされるのですね」
「そうだね、スプライトを飲んだ時みたいにね。『証言』『紐』もどんな結末なのか気になって、急いで最後まで読んだよ」
「松本清張が先生をそれだけ夢中にさせたということですね」
「ずっとひとつの作品を読み続けるのが望ましいのだが、西洋文学の作品の中には出だしが取っつきにくくてのめり込まないものもある。ずっとそれを読み続けようと思うと行き詰ってしまうところが、ちょっと他の本を読んで気分転換が出来てその西洋文学を引き続き読むことが出来たら、それはそれでいいことだと思うよ。で、ハックルベリーの方はどうだった」
「実は、まだ『トム・ソーヤ―の冒険』読んでいないのです。『ハックルベリー・フィンの冒険』を最後まで読みましたが、その前置きの『トム・ソーヤ―の冒険』を読んでいないとわからないところがあり、不完全なままでこの物語についての感想を先生に話そうと思わないのです。だから『トム・ソーヤ―の冒険』を読み終えるまで待っていただきたいと思います」
「私の印象は、『ハック』は悪戯好きの少年の冒険談というものだが、どちらの小説もトムの出番が多くて一筋縄ではいかない少年だから物語がややこしくなる。トムの行動を冷静に見ていないと『トム・ソーヤ―の冒険』を好意を持って読めなくなり、物語の把握が難しくなると思う」
「わかりました、トムの行動をやさしく見守ることにします」