プチ小説「谷さん 聞いて!」

船場弘章が四条烏丸のバス停から55番の市バスに乗ると、一番後ろの5人掛けのシートの真ん中にに谷さんが座っているのが見えたので声を掛けた。
「ああ、谷さん、こんにちは。今からどこか京都の名所に行かれるのですか」
「いや、わしはあんたの方に話したいことがあるというのを聞いて、あんたがいつも利用しているバスに乗った、とこういうわけや」
「そうですか、ご配慮いただきありがとうございます。四条烏丸始発のバスに乗って登場されるというのは谷さんらしくていいですね」
「まあ、異星人やからちょっとくらいはおもろいことをせんとな。それより相談ごとってなんなんや」
「実は、以前からプチ小説に書いたことがあるんですが、クラシック音楽が登場する小説を書きたいんですが、どんなのがいいのかと思いまして」
「そら、読みごたえがあるのは評伝的な小説やろな」
「生まれた時から生涯を終えるまでですか」
「それが一番ええけんど、やっぱり人には🌸の時期があるから、そこを取り上げるんがええんとちゃう」
「例えばどんなのがいいのかな」
「ベートーヴェンやったら交響曲の作曲家ちゅーイメージが強いんやが、わしはピアノが好きや。コンチェルトもええけど、一生コンスタントに書き続けたのはピアノ・ソナタやからそれに沿って彼の人生の出来事を追って行くのはおもろいかもしらん。作品1はピアノ三重奏曲やけど作品2はピアノ・ソナタの第1番と第2番と第3番や。有名な第4番に比べると完成度は劣るんやけど、初々しい魅力があってわしは第1番なんか好きやな。第4楽章ポポポンとかええと思うわ」
「ポポポンソナタですね」
「ほんでー、第4番の後いうたら、やっぱり第8番「悲愴」やな。初版譜の表紙に「悲愴」と書かれてあったというだけでベートーヴェンの発案かどうかわからんらしいけど、曲のイメージにピッタリや。第2楽章は編曲されたりしてて、ビリー・ジョエルも自分の曲に取り入れとる。後世の作曲家に影響を与えた曲としては第12番があるんやが誰かわかるか」
「第12番というと「葬送」ですよね。葬送行進曲は第3楽章ですが、この曲の第1楽章を聞くとジーンと来ます。葬送行進曲というとショパンですね」
「そう、ショパンはこの曲が好きやったらしいから、この曲を聞いてピアノ・ソナタ第2番の創作意欲が湧いたと考えられる。次はやっぱり第14番「月光」かな。この曲は作曲者自身が「幻想曲風ソナタ」と標題を付けたようやが、それよっか、「月光」の方がピッタリという感じや」
「そうですね、その次は第23番「熱情」ですかね」
「いやいや、ええのがいくつかあるよ。第15番「田園」、第17番「テンペスト」、第21番「ワルトシュタイン」でどれも素晴らしい。あんたも「田園」好きなんやろ」
「そうですね、田舎の道をぽかぽか陽気の中、鳥の鳴き声に耳を澄ませて歩いているという感じで、家に居ながら自然に囲まれて歩いている気分になれます」
「そうやな、そんな気分に浸れる曲をベートーヴェンさんは作曲しはったんや。わしは「熱情」はピアノ・ソナタの最高峰やと思うけど、あんたはどう思う」
「仰ることに文句はありませんが、他の曲もいいものがたくさんあります。その後の曲で言うと第26番「告別」それから最後の3つのピアノ・ソナタも素晴らしいですね」
「わしは、尻すぼみな気がする第29番「ハンマークラヴィーア」は好きになれん。でもこの曲の評価は高い」
「そうですね、「熱情」や第32番の終楽章のようにしてほしかったなとぼくも思いますが、全部がそういった終わり方ではワンパターンという気がしますし、迫力があって長大なイメージの第1楽章があるから終楽章は落ち着いたものにしようと考えたのでしょう。ベートーヴェンは多くの女性に恋して叶わなかった。ピアノ・ソナタの中には女性に捧げたと考えられる曲がいくつかあります」
「そういう恋愛と曲を結びつけて物語に紡いでくのもええんとちゃう」
「ぼくは10年程前に、沢山の評伝を読みました。ベートーヴェンの評伝では、山根銀二著『ベートーヴェン研究』上・中・下と岩波新書『孤独の対話』を読みましたが、残念ながらそういった評伝をもう一度読み直すだけの時間と体力はないです」
「ほんでも評伝を書きたいんやったら、ちゃんと裏付けは取っとかんとあかんよ。参考にして書くようにせんと困ることになる」
「いろいろご意見をいただきありがとうございます。でも今のところベートーヴェンの評伝を書くつもりはありません。クラシック音楽の楽しさを伝えたいので、それにはどんな小説がいいか谷さんからアドバイスいただこうと考えたのですが...桜木町(立命館大学前の1つ手前のバス停)に来てしまいました」
「そうか、ほんならわしはここで失礼するわ。あんたがそう言うんやったら、またあんたと話をしに来るわ」
そう言って、谷さんは桜木町のバス停で下りられたのでした。多分、その後M29800星雲に帰られたのだと思います。