プチ小説「こんにちは、N先生 50」

私は母親が12月から摂津市内のリハビリ病院に入院していて毎土曜日にお見舞い(オンライン面会)に行くのですが、ペーパードライバーなので車ではなくて自転車で通っています。自宅を出て10分程で府道16号線に入り大阪方面に向かうのですが、今日は摂津市内に入ってしばらく行くと千鳥格子の背広を着た40代位の男性が前方を自転車で走っているのに気が付きました。道幅が狭い人がほとんど歩いていない歩道を自転車で走るのですが、なかなか抜くことが出来ずにいるとN先生は急に自転車を止められ後ろを向かれて私に、そこの〇将に寄って行かないかと言われました。私は昼食を食べてすぐだったので、もう少し行くと〇クドナルドがあるのでそっちがいいですと言うと先生はそうしようと言われました。先生も私もホットコーヒーだけを注文して、小さなテーブルを挟んで椅子に座りました。
「君は最近松本清張の『渦』を読み終えたようだね」
「以前から、視聴率調査については興味があって、松本清張が視聴率調査を取り上げた小説を書いているということで半年くらい前に購入したのですが、なかなか読めませんでした」
「それはなぜかな」
「ひとつは全然話題にならず、ドラマにもならなかったというのがあります」
「他にもあるのかな」
「この作品は1976年から77年に日本経済新聞に連載されたものが新潮文庫になったのですが、連載の頃、作者の年齢が60代後半ということもあって50代までの鋭さがなくなっていると思ったのです。実際、この小説の主人公は喫茶店の店主なのに殺人事件に深くかかわり、拙い推理をしまくります。最後は本当にみっともないと思いました」
「まあ、そのあたりのことはあとでゆっくり聞くとして君は歴代視聴率のベストスリーは何か知っているのかな」
「1位が1963年の紅白歌合戦、2位が東京オリンピック女子バレーソ連戦、3位が2002年サッカーワールドカップロシア戦ですね」
「そう、1位が81パーセント余り、2位と3位は66パーセント余りだね。当時の室内での娯楽と言えばテレビくらいだったのでこのような数字が可能だったのかもしれない。今なら、お金があればゆったりしたリビングで高級オーディオから流れる音楽を聴くこともできるし、音楽ならインターネットを介してユーチューブを見ることも出来る。それから様々な種類のゲームに魅了される人も多い。そんなこともあって、地道に読書をする人は芥子粒ほどの数になってしまった」
「読書離れが進んだ今の世の中は新聞を読まなくなり、誤った情報に翻弄される人が多くなった気がします。スマホから得られる情報より、NHKと民放が発するそれの方が明確で間違いが少ないのにスマホを見ている人の方がはるかに多い気がします」
「そんな世の中がどうなって行くのか心配は心配だが、こればかりはひとりひとりの意志だから他人がどうこう言えない。早く間違ったことをしているなら、気付いてほしいと言うことしかできない。と、ここで松本清張にもどるが、彼が生きた時代は本が娯楽の王者という時代で彼が書いた本が多くの人の楽しみとなった」
「そうですね、推理小説だけでなく、歴史小説にも面白くて興味深い小説がたくさんあります」
「そのほとんどが読んでいてためになったり、楽しませてくれるものだが、中にはこれは失敗作じゃないかというのもある」
「この小説も視聴率の出し方(モニター家庭の選別、提出されるデータ数(調査する件数))について疑問を呈したりしてそこのところは興味深いのですが、推理小説という形態でエンターテインメント小説にするなら、汚職とか殺人とかにからんで犯人と探偵または刑事が出て来ないといけない。そこで伊豆半島浮島温泉近くの断崖から車が転落するという事件が起きる。心中したと見られるカップルの女性尾形恒子が視聴率調査に使うパンチペーパーの回収員であることから、古沢啓助の依頼で視聴率調査のシステムを探ろうとした小山修三、羽根村妙子、平島庄次(羽根村の同僚)との接点が生まれる。回収員の行動を注視することになるのだけれど、三人は視聴率調査のことで回収員に何度もあれこれ質問するわけでなく最初にちょっと探りを入れただけで後は遠くから行動を見ているだけです。そうして事件が起こり小山のピントのぼけた推理というより当てずっぽうが炸裂(暴発)するのですが、そんな無駄打ちはええ加減にしたらと思ったところで平島庄次が現れて、小山をたしなめるという感じです」
「そうだね、羽根村さんは自分なりに一所懸命調べたことを小山に伝えているだけなのに、小山からあんたが犯人じゃないのかと疑われたりする。本当に気の毒な女性だ。なんで喫茶店のマスターが視聴率調査のことを調べてと依頼を受けただけなのに刑事のように犯人探しをするのだろうと思ってしまう。的外れでないのならまだ救われるのだが、羽根村さんは可哀そうに、小山に犯人にされてしまうのだから」
「平島から正しい推理(犯人の長野博太が交通事故で亡くなってしまったので、平島にも真相はわからない)を聞かされて、小山の俄か探偵の鼻っ柱が折られてある意味スカッとしますが、こんな男に羽根村さんは恋愛感情を持ち続けるのでしょうか」
「口髭がセクシーな喫茶店店主だから、女性を魅惑する何かがあるのかもしれない。羽根村さんは小山に、あんたなんか虫が好かない人だとかすかんたこだとか言っていないから、これからも仲良くやって行くんじゃないかな」
「そうですか、一度好感を持つと女性は慕ってくれるんですね。羨ましい限りです」
「さあ、そろそろここを出よう。それじゃあ、お母さんを大事にして」
「有難うございます。先生もお身体を大切にしてずっと私に楽しいひと時を提供してください」