プチ小説「こんにちは、N先生 52」

私は出身大学の図書館を利用する時、昼食は開講中なら西側広場の近くの弁当屋さんで弁当を購入して広場で食べるのですが、現在は休講中のため大学近くの定食屋さんやファストフード店でお昼を食べます。最近、定食屋さんの味噌汁のお椀の蓋が開けにくくほとんど指紋のない私はいつも劣等感を抱きます(よく開け損ねて。蓋が裏返ったりします)。それで今日は気分転換に立命館大学近くのお好み焼き屋さんに行くことにしました。龍安寺近くにあり、外国人にも人気があると食べログに書いてありました。午前11時30分開店とのことでしたので、11時15分に図書館を出てその店に向かいました。こじんまりとした店で、入ったところに鉄板があってカウンター席が4つあり、奥に座敷があるようでした。私が店に入ると4つのカウンター席の両端に東南アジアから来られた人と台湾から来られた人(どちらも私がそう思っただけですが)が自分が食べるお好み焼きが出来るのを待っておられました。私はいつものように豚玉と焼きそばを注文したのですが、出来上がるのを待っているとN先生が店に入って来られ私の隣に座られました。
「君は『長距離走者の孤独』(シリトー著)と松本清張の短編集『共犯者』を読み終えたらしいが、どうだった」
「いつも気を遣っていただいて有難うございます。ですが、ここに長居は出来ませんし、コロナのこともありますのでマスクを外しておしゃべりするのもどうかと思います。なので、マスクを着けている時だけおしゃべりする。食べ終わったら速やかにお金を払って店を出るということにしたいんですが」
「なあに、心配することはないさ、ぼくが、🐷玉、🦑玉、モダン焼き、ネギ焼き、とん平焼き、オムそば、そばめしを順番に食べて行くから、時間は充分ある。ただ話をする時はマスクを着けるけどね」
「そうですか、安心しました。でもそんなに食べてお腹が破裂しないか心配です」
「ここはソースがおいしいからいくらでも入るよ。それより『長距離走者の孤独』はどうだった」
「この短編集は、今まで何度も手にとっては購入するのをやめました。今回、古本を購入して読んだのですが、やっぱりかという感じでした。主人公は非行少年で感化院長に勧められ期待を背負ってクロスカントリー競技会に出るのですが、途中で走るのをやめてしまいます。それがいろいろ問題がある権力者に対するものとして評価されるという小説です。それが評価されるものなのかどうかは読み手の判断に委ねられると思うのですが、私の場合はそういう不良がへそを曲げるというのは良くないと思うのです。教養小説をはじめとする主人公の成長を描く小説はこういった場合に改心し心機一転頑張ると思うのですが、なぜか不良が不満を訴える小説が流行し出し19世紀の頃に紳士淑女を楽しませたような善良な人が主人公の小説は人気がなくなりました。ちょっと影がある、悪いことをやったことがあるような陰影のある人が普通の人がしないようなことをするというのが自然だと思うようになったのだと思います。でも私は善良な人が艱難辛苦を乗り越えたり、人からよい影響を受けて改心するような小説の方がいいですね」
「この短編集には他に7つの短編があるがどうだった」
「労働者の暗い生活を描いている『アーネストおじさん』『土曜の午後』『試合』なんかはとても後味の悪い小説でした。小説に書くのなら もっと明るい希望を持たせるものを書いたらいいのにと思ったものでした。一緒に読んだ松本清張の短編集『共犯者』も後味の悪いものが多いのですが、いずれも筋運びが絶妙なので最後まで楽しんで(犯罪小説が多いのですが)しまいます。松本清張の小説は教養小説とはとても言えないのですが、なぜか最後まで楽しんで読みました」
「でも、あんまり松本清張ばかり読んでいると懸賞小説に出す原稿が書けなくなるんじゃないか。『砂の器』を読んでいる時は丸2日間そればかり読んでいただろう」
先生は一通り食べられたので、次はおでんをいただこうかと言われ、たまご、ダイコン、ひら天、ちくわ、ジャガイモ、厚揚げを頼まれました。
「『蒼い描点』『影の地帯』『水の炎』『黄色い風土』のページ数をあわせると2600ページ余りになる。それらを読む時間を小説を書く時間に当てた方がいいと思うけどなあ」
「そうですね、でも、松本清張の小説を読むのは楽しみですから、行き帰りの電車の中くらいは息抜きに読みたいと思っています」
「君は最近、阪急電車やHolly’s Caféで原稿を打ったりしているが締め切り近くになったら、図書館や自宅だけでなくそこでも原稿を打つといい」
「私の場合、人に見せられるようなものではないので、余り人がいないときにこっそりと打とうかなと思っています」
「まあ時間を大切にすることだね。じゃあ、私はここで」
N先生はダイコンを食べられ支払いを済まされましたが、お腹が重たくなってしばらく動かれませんでした。