プチ小説「こんにちは、N先生 53」

私は2019年まで年に4回、LPレコードコンサートの開催のため東京に出掛けていたのですが、コロナ禍のため開催ができなくなりもう3年余りになります。昨年5月に再会する方向で検討したのですが、母親の入院などがあって出来ていません。それでも日帰りで遊びに行くだけなら問題ないので、東京に3月18日に行くことにしました。JR高槻駅のみどりの窓口に並んでいると後ろから声が掛かりました。
「また東京の名曲喫茶で持ち込みのレコードを掛けてもらうようだが、君は今回そのためだけに行くのかな」
「ああ、N先生ですか。先生もJRでどちらかへ出掛けられるのですか」
「ぼくは関東の人間だが、東京のお花見をあまりしていない。今年は千鳥ヶ淵や目黒川や上野公園なんか行ってみたいと思って。でも今年は開花が早いようだから、間に合わないかもしれない。今度の週末なんだが、大丈夫かなあ」
「たまに寒気が下りて来たりしますから開花してからしばらく散らないで見られるんじゃないですか。ところで私は千鳥ヶ淵に行ってみたい気がしますが、東京は観光地が凄い人出になることが多いのですくんでしまいます。今回も名曲喫茶と中古レコード店だけになりそうです」
「でも、ヘッセの『郷愁(ペーター・カーメンチント)』の中に有名な詩があるだろ。「若々しい感覚で楽しめることはその時に自ら求めて楽しむ」ってのがいいんだよ。ぼくだってそうなんだ。というのもいつ病気になるとも限らないんだから」
「私も一時ヘッセの小説をよく読んだのでその詩のことはよく知っています。作者を明かしていませんが、私はヘッセが書いたんじゃないかと思っています。高橋健二さんの訳をそのまま載せるわけに行かないので、ちょっと変えてここに上げると、「青春は言葉では言い表せないくらいにうつくしいものだ しかしやりたいことをなすすべもなく経過してしまいがちである 自分が打ち込みたいと思ったことは頑張ってやってみるのがいい 誰の人生も一律に充分な時間が与えられるとは限らないのだから」ちょっと間延びしてしまいましたが、私はこの詩を読んで若い頃はいろいろやってみよう。そうしてすぐに結果が出なかったら、時間の余裕がある時にもう一度やってみようと考えたのです。若い頃は短いですが新鮮な気持ちで物事に取り組めます。だからいろんな楽しみを若者の新鮮な感覚で経験しておいて、中高年になって可能であればもう一度やってみようと思ったのでした」
「そうして君はたくさんの趣味を持ったが、ほとんど収穫できていない。やりっぱなしはよくないと思うよ。ところで君はヘッセの『シッダールタ』を読み終えたようだが、どうだった」
「私は大学生の頃にヘッセの小説をいくつか読みました。『郷愁』の他に、『春の嵐』『青春は美わし』『知と愛』『車輪の下』を読んだのですが、余り内容を覚えていません。『郷愁』の主人公のことはよく覚えているのですが、他の登場人物はあまり覚えていないのです。『シッダールタ』はお釈迦さんの評伝小説ですが、簡潔に書かれていてしかも主人公シッダールタが生き生きと描かれているので楽しんで読むことが出来ました」
「ヘッセは西洋の人だからキリスト教は身近なものだが、仏教の開祖のことを書くのは大変だったろう。それでも生まれてから老年までをわかりやすく描いている。カマーラと出会って以降のことは創作のように思う」
「私はこの小説を読む前は釈迦が偉くなってから弟子たちに教えたことや様々な奇跡を書いているのかなと思いましたが、そうではなくて、淡々と修行して成長していく姿が描かれています。宗教家として成長するために若くして親から独立し、友人ゴーヴィンダと共に沙門(巡礼の苦行者)となり様々な経験をしていくところから始まっています。しかしシッダールタは沙門に物足りなさを感じて、今度はゴータマに弟子入りします。ゴータマから多くの教えを得たシッダールタはさらなる高みを目指して旅を続けますが、ある大きな町の林園のそばでイチジクのようにあざやかな赤い口の遊女カマーラに出会います」
「その前に別の女性から誘惑があった。一度はとどまったが、2度あると負けてしまう」
「このカマーラとの親密な情愛の関係を続けたり富豪のカーマスワーミの相談役となって財力を蓄え、成金の生活を営み賭博にのめり込んで行くあたりは、最後のところで作者が言いたいことを明確にするための伏線になっているように思います。このあたりは事実ではなく、小説を興味深いものにするためのヘッセの創作だと思うのです。カマーラとの愛欲生活の果てに息子ができますが、息子は裕福になったシッダールタの息子として贅沢な環境で育てられます。カマーラと離別したシッダールタは環境の変化に耐えられず変調を来たして家を出ますが、渡し守(ヴァズデーヴァ)に助けられます。シッダールタと渡し守は平穏な生活を過ごしていましたが、旅に出たカマーラが事故に遭って亡くなり、シッダールタと渡し守が同行していた息子を育てることになります。このシッダールタと渡し守の生活とかつてシッダールタがのめり込んでしまって今は息子が営んでいる富裕者の生活の対比が描かれます。シッダールタは息子を自分が歩んで来た信仰の道に導こうとしますが果たせず、息子は逃亡します。絶望したシッダールタは渡し守の力を借り信仰の道に戻って傷を癒していきます。彼は途中から友人ゴーヴィンダと別の道を歩みましたが、ゴーヴィンダは修行の旅を続けていました。渡し守が森の中に入って悟りを極めるとシッダールタに伝えたためシッダールタは渡し守の後を継ぎますが、そこにゴーヴィンダが通りかかります。そこでずっと信仰の道を歩んだゴーヴィンダと横道にそれて世俗的な生活や俗世を離れて自然に囲まれて生活したシッダールタが対比されますが、このあたりの記述については難解です。一番最後のところで、「私は思想とことばの間に大きな区別を認めない。(中略)私は思想をあまり重んじない。私は物の方を重んじる(あるがままを受け入れる?)」というのがシッダールタが言いたかったことではないかと思います。いろいろ考えるより、目の前のものを直視して対策を考えるというのが言いたかったことではないかと思うのですが...どうでしょうか」
「まあ、プチ小説のような小さな紙面では言いたいことが中途半端に終わってしまうだろう。紀元前5世紀の頃からいろんな人が考えたことをここにわかりやすく伝えることが出来れば、それこそ「君は賢人だね」と言ってもいいところだろうが、残念ながら、君の場合は、「まだまだ修行が足りない」としか言えないだろう。お釈迦さまでさえ何十年もかかって悟りに至ったのだから、1冊の本を読んだだけで大きな顔して感想を言うのもどうかと思うな」
「すみません」