プチ小説「こんにちは、N先生 54」

私は2019年まで年に4回、阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンでLPレコードコンサートを開催していたのですが、2020年3月のLPレコードコンサートがコロナ禍で中止になって以来、猛威を振るいまくった新型コロナウイルスのせいで昨年まで開催できませんでした。それでも規制が厳しくなって3年経過しこの3月からはようやくマスクの着用は個人の判断に委ねられるようになったりして規制緩和の兆しが見えてきたため、それを切っ掛けに開催が難しかった音楽の催しが徐々に復活して行くことと思われます。私が開催するLPレコードコンサートもそろそろ開催可能かと思ったので、久しぶりに東京に出掛けることにしました。と言ってもクラシック音楽と読書が私の主な趣味なので、行くところと言うと名曲喫茶と神田の古書街、新宿のディスクユニオンくらいなのですが、今回は日帰りですので、神田の古書街に行くのは諦めて、名曲喫茶ヴィオロン、名曲喫茶ライオン、新宿のディスクユニオンに行くだけにしました。名曲喫茶ヴィオロンでは、ピアノがウィルヘルム・バックハウス、ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルの演奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」をたっぷり聞かせていただき、名曲喫茶ライオンでは、ジョン・バルビローリ指揮ウィーン・フィルの演奏でブラームスの交響曲第2番と悲劇的序曲を堪能しました。ディスクユニオンでは、フルートのマルセル・モイーズによるドップラーのハンガリー田園幻想曲他の10インチ盤やジャン=ピエール・ランパルによるフランクのフルート・ソナタ(ヴァイオリン・ソナタの編曲)他の珍しいレコードや前から欲しかったジョージ・セルのドヴォルザークの交響曲第7番のレコードを購入することができました。昼食をJR阿佐ヶ谷駅前の日乃屋カレーのチキンカレーで我慢したので、夕食はいくらとかにがいっぱいすし飯の上に乗った函館めし弁当を奮発して午後7時の帰りの新幹線に乗りました。函館めし弁当を食べ終えてしばらくすると新幹線が品川駅に停車し乗客が入ってきましたが、その中にN先生がおられ空いている私の隣の席に座られました。
「こんにちは、N先生、どちらに行かれたんですか」
「テレビで渋谷が開発で大きく変わりつつあるのを見た。それで今どうなっているか見ておこうと思ったんだ」
「ぼくも気になっていたことがあったんです。渋谷の駅の上に立っていた東急百貨店がなくなっていて、腰を抜かしそうになりました」
「1月末で営業終了したけど、2ヶ月もしないうちに取り壊すんだから本当にびっくりだね」
「1番線のホームがなくなり廃墟のようになっていたのですが、どうなるんでしょうか」
「1年後には何かに生まれ変わっていることだろう。原宿駅も2020年に改修が終わったし、高輪ゲートウェイ駅が開業して3年になるし、山手線全体が大きく変わりつつあるんじゃないのかな」
「巣鴨や鶯谷も高層の駅ビルが出来たりするんでしょうか」
「年配の人が多いから急に高層ビルができることはないだろう。高層ビルも東京観光の売りだけど、下町の商店街や猥雑な雰囲気というのに魅力を感じる人もいるからそれらすべてを刷新しようとは考えないんじゃないかな。でもそういうのがいいという人がいなくなったら、あっという間に昭和の街並みはなくなっちゃうだろうね」
「ちょっとさみしい気がしますね。山手線のある駅前に大きなビルができて、そこには飲食店が100入るとしたら、それまでそこにあった商店街がすっぽり入るかもしれませんが、それで便利になるかどうかですね。お年寄りなんかは愛着がわかないと言われそうです」
「若い人がどう考えるかも考えないとね。それはそうと君は、松本清張の短編集「眼の気流」を読み終えて、今、短編集「死の枝」を読んでいるようだね」
「松本清張の短編集は読み飛ばしてしまうのもまれにありますが、凄いなと思わせるものがたくさんあります。そういう短編はドラマや映画になるみたいです」
「どれが面白かったのかな」
「短編集「眼の気流」の中では、代作をした人と代作をしてもらった人が岡山県の湯原温泉で鉢合わせする『影』が面白かったのですが、短編集「死の枝」はまだ半分しか読んでいません。ですが、『交通事故死亡1名』『史疑』『年下の男』は面白かったですし、殺人を犯した男が精神疾患の患者を装って刑罰を免れようとする『偽狂人の犯罪』はそのオチも面白く、私は吹き出してしまいました。でも登場人物の多くが犯罪小説の必要上簡単に殺人を犯しまた手口も披露してくれるので、自分もそうならないか不安になって来ました」
「『偽狂人の犯罪』は、ドストエフスキーの『罪と罰』について主人公が語っているところがあって興味深い。『影』は、日本画の贋作を扱っている『真贋の森』と似たところがある。どちらも偽物が本物に迫って凌駕してしまいそうになるところが面白い」
「それにしても、松本清張はこんなに面白い小説を次々発表したのに、ノーベル文学賞をもらっていません。やはりエンターテインメント小説では取れないのでしょうか。小説以外にも、大江健三郎さんのように社会に貢献しないといけないんでしょうか」
「松本清張のおかげで映画やドラマがたくさん作られているし、出版でも沢山の本を出して貢献している。今更と言われるかもしれないが、無冠の偉大な人物に相応した栄誉を与えてもいいんじゃないかと思う」
「私も同じ意見です。オチのある読みやすい小説を書いた(歴史小説も)作家としてもっともっと評価してもらえたらと思います」