プチ小説「こんにちは、N先生 55」

私は最近月3回の火曜日のクラリネットのレッスンを終えると阪急高槻市駅すぐそばのぎょうざの満州に寄って晩ご飯を食べるのですが、いつものように中華飯小盛と麻婆豆腐を頼みました。そうして何気なく二つ向こうのテーブルを見ると、千鳥格子の背広を着た紳士のうしろ姿が見えて、その紳士はレンゲで麻婆豆腐を食べておられました。よく見るとそれはN先生でした。N先生は、ここの麻婆豆腐は本当に美味しいなぁと言いながら豆腐とひき肉の炒め物をひたすらお口に流し込んでおられましたが、しばらくすると食事を終えられこちらを向かれました。
「今日はクラリネットのレッスンがある日だから、君がここに来ると思っていたんだ。本当にここは、麻婆豆腐、チャーハン、中華飯、青椒肉絲、回鍋肉、各種ラーメンなどなど中華料理店ほどメニューが多くないが、どれも味付けがすばらしいね」
「先生もここの料理を気に入られているようですね。ぼくもここの味付けが素晴らしいので、よく来るんです」
「ところで君はようやく教養小説の古典と言われる『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を読み終えたようだが、どうだった」
「私は最近今まで何か理由があってしり込みしていた小説を頑張って読んでみようと思い、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』『トム・ソーヤの冒険』やヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んだのですが、この小説もその一つだったんです」
「どんなところにしり込みしたのかな」
「ひとつは主人公のヴィルヘルム・マイスターがある秘密結社に入ることになっていて、原作者のゲーテもある団体に所属していたということで、ややこしい宗教の話とかあっと驚くような宗教儀式が出て来ることを恐れたんです」
「恐れることはなかっただろう」
「この小説は第8章まであってそのあと続編の『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』へと続くのですが、第7章の終わりのところで主人公が何が何だかわからないような状況でロターリオに無理矢理秘密結社の宗教儀式(神父(アベ)が立ち会うのでそう言うのだと思うのですが)を体験させられたり、ミニヨンの葬儀がとても変わっているというくらいで、第7章、第8章で秘密結社のことについての記述が思ったほどなく肩透かしを食った感じです。それにしてもこの小説の中で一番印象に残るのがミニヨンですが、余りにも酷い扱いなので気の毒になります」
「ミニヨンは貴族に保護されて育った遺児のようだが、ある日ミニヨンが主人公ヴィルヘルムの前に現れて興味を示す。ヴィルヘルムがミニヨンに興味を持ったのはミニヨンがエッグダンス(目隠しして置かれた卵を傷つけないように踊る)をしてからで、華奢で繊細な神経を持つこの少女に恋愛感情とは言えないが愛おしいというような感情を持つんだね」
「そうですね、多分、その時はヴィルヘルムが25~30才くらい、ミニヨンが13~15才くらいだと思いますので、ヴィルヘルムがミニヨンを恋愛対象にすることは難しかったのだと思います。ミニヨンの方は最初からヴィルヘルムに対して熱い恋愛感情を持ち続けましたが、決してそれを明らかにすることはなくヴィルヘルムからの告白をじっと待ったのでした」
「そんなヴィルヘルムは美顔でもてたので状況の変化でいろいろな女性と懇意になる、マリアーネから始まり、フィリーネ、リューディエ、伯爵夫人、テレーゼそしてナターリエと親しくなるんだが、いつの間にかナターリエとの間に子供が出来ていて、その子がヴィルヘルムにまとわりつくんだ。フェーリクスのことだが、いつできたんだろうと思ってしまう」
「他にも不自然な展開がいくつかありますが、特に変なのは、ヴィルヘルム、ミニヨン、ナターリエ、フェーリクスがいるところに突然テレーゼがやって来て、「ヴィルヘルム、わたしの恋人、わたしの良人、わたしは永久にあなたのものよ」と叫んで、激しいキッスをあびせかけるところです。この場面を目の当たりに見て、ミニヨンは、突然左手を胸に当て、右手を激しく突き出して、叫び声を上げると、死んだようにナターリエの足もとに倒れこみます(P222~223)。相当なショックだったのだと思います。今まで思いを胸に秘め時々胸をときめかせて近寄るだけで満足していたのに、愛する人のところに突然おばさんがやって来てキスをしまくられたわけですから、心臓発作を起こして倒れても仕方がないかと思います。本当にやさしくていじらしいミニヨンがかわいそうになります」
「でもヴィルヘルムはテレーゼと親しくなって結婚の手前まで行っていたんだから、テレーゼもすっかりその気になっていただろう。その上でああいう思い切った行動に踏み切ったんだ」
「ところが、如何せんそれまで兄妹だと思われていたロターリオとは血縁関係がなく、今まで相思相愛だったロターリオとテレーゼの関係の方が優先されるとすごい怪しい人物ヤルノから発表があり、ヴィルヘルムは従います。つまりテレーゼとの結婚は諦めたのです。このヤルノという人物はシェイクスピアのことをヴィルヘルムに教えて、『ハムレット』を上演させるなど演劇にのめりこませたのですが、その後、あんたには才能がないと言ったりして、本当にマッチポンプのような人です。しかも挙句の果てにヴィルヘルムは秘密結社に入会させられてしまうのですから、ヤルノにいいように振り回されてヴィルヘルムの『修業時代』は終わってしまったという感じです」
「『遍歴時代』ではヴィルヘルムがナターリエ、フェーリクスとともに各地を遍歴するということだが、君は読むのかな」
「一番興味があった登場人物のミニヨンが亡くなってしまいましたし、ヴィルヘルムの女性に対する腰の軽さは目を覆ってしまいます。優柔不断な彼の行動を追っていると人間不信になりそうなので、相当なことがないと続きは読まないと思います」
「相当なことと言うとどういうことかな」
「松本清張の本を全部読んで、読みたい西洋文学を読み終えてからになると思います」