プチ小説「青春の光 110」

「いよいよ春本番ですね」
「そうだね、ようやくわれわれもワンパターンの出だしから解放されそうだ」
「そうでしょうか、船場さんは、こういうところはマンネリを恐れない人ですから、簡単には自分のフレーズを手放したりしないと思いますよ。形を変えたりして。と、ところで、橋本さん、船場さんのお母さん無事退所されたようですね」
「そうなんだ、昨日、老健施設を退所され、午前10時前には家に戻られたようだ。船場君は弟夫婦とご母堂の4人で昼の食事をされ、午後からこれからのことを話されたようだ。詳しいことは言わないが、ご母堂は時間はかかるが以前と同じことがだいたいできるようだから、今まで以上にサポートが必要になるけれど長時間の付き添いの必要はなさそうなので大学図書館通いや一泊二日の小旅行もできそうということだ。でもご母堂は87才だから、今まで以上に大切にしてあげてほしいものだ」
「そうですね、船場さんがぐれないで成長したのもお母さんのお陰なんじゃないですか」
「まあ、浪人時代や学生時代の困っている時に経済的支援をしてくださったり時には叱咤激励もされたようだから、そうとも言えるかもしれない」
「そしたらコロナもほぼ終息したようですし、船場さんは2019年までしていたLPレコードコンサートを復活されるのでしょうか」
「当然そうなるが、マスターからの要請で午後1時から2時間以内の催しになるようだ。船場君が日帰りで開催したいと希望を出したことから、マスターが提案してくださったようだよ」
「そうですよね、仕事をやめられたので、自由な時間ばかりになったのですが、もう一つの活動のエネルギーとなる資金が余りないようですからマスターからの心配りを受け入れられたのでしょうね。レコードコンサートが早く終わるとそれからディスクユニオンに寄って帰ることができますから。でも節約ばかりではつまらないでしょうから、早くお金が稼げるような小説家になれるといいですね」
「そんなに甘くないだろうが、今まで通りに母校立命館大学の図書館に通いながら懸賞小説の原稿を書くということは続けられそうだ。週に4回ご母堂と夕食を食べられたりしながら、楽しい小説を書いてほしい」
「でも小説家になるためには出版社の文学賞を取らないと駄目なんでしょうか」
「そうだな、自称小説家ではなく小説家として認められるためには最低限それは必要だろう。だって読者に基準が必要だから。芥川賞、直木賞でなくても有名な文学賞や文学賞の新人賞を取ったということになると出版社のお墨付きを得たわけだから、本屋さんも安心して店頭に陳列できるし、雑誌、新聞の書評欄にも取り上げやすい。読者の見方も変わって来る」
「船場さんの場合はどうなんでしょう」
「船場君が文筆業で生計を立てたいと考えたのは40代後半になってからなんだ。一所懸命に若い頃働いたが、勤め先では管理職になれない、だから結婚も難しい、子供も作られない。そんなら俺は何を後の時代に残せるんだろうと考えた時に、船場君は自分で書いたものを出版してもらうのがいいと思い浮かんだ」
「それでまず出版社に持ち込んだのがクラシックの名盤を200枚推薦したものだったのですね」
「そう、でも2つの出版社から没にされ、最初に持ち込んだ出版社の若手編集者からホームページでの公開を提案されたんだ」
「それで船場さんはたまたまSEをされていた人が職場にいたのでその人からホームページのことについてアドバイスを受けられたのですね。そうして何とかそのホームページをアップロードしたのが、2002年3月だったんですね」
「最初は船場君の愛聴盤(クラシック音楽)に関するエッセイのようなものだけを掲載していたんだが、やがて短編小説、自分で撮った写真、クラリネット日誌、登山の体験記、小説の感想文、朗読用台本なども掲載するようになった」
「船場さんがペンネームでなく実名で某出版社の新人賞に応募されたことがあるんですよね」
「2004年か2005年に書かれたのだが、山登りの時の事故で目が見えなくなった若い会社員が何か社会貢献をしようと奮闘する話らしいが今では原稿が残っていないようだ。この時船場君が感じたことがあって、それは自分には余り真面目な人が真面目に頑張っているような小説は自分の性格と乖離しているのでのめり込んで書けない(感情移入が難しい)ということだった。ユーモア小説好きな船場君が純文学や企業小説のような小説を書くと、うまく行かないと自分で認識したようだった」
「そうしてホームページにユーモア小説を少しずつ書いて行かれたのですが、A4用紙に収まるくらいのプチ小説を書かれるようになって、「こんにちは、ディケンズ先生」が始まるわけですね」
「これはだいたいの年月になるが、船場君が短編小説を書き始めたのが2007~2008年、プチ小説を書き始めたのが2010年になる。「こんにちは、ディケンズ先生」を書いていると楽しく、他の人にも読んでほしくなって出版を考えるようになったらしい。出版について何も知らない船場君の頭に浮かんだのが、大学生の頃によく読売新聞に掲載されていた近代文藝社の小説を査定しますという広告だった。Aランクなら企画出版で出版社が出版費用、広告費を負担する、Bランクなら自費出版だが流通する、Cランクは完全自費出版で製本して出版する(だけ)と書かれてあったが、そこに原稿を送って査定してもらおうと考えたのだった。2010年の年末に近代文藝社に原稿を送ると年明けにB査定との連絡があった」
「船場さんは後世に残せるものが出来たとやる気満々だったそうですが、ご両親は反対されたそうですね。特にお母さんは出版費用が150万円以上かかるし、1000冊もの本をどこに置いておくのかと猛反対だったそうです。その辺りをきっちり説明して、ご両親の了解が得られたようです」
「出版の際には友人がいろいろアドバイスしてくれて、校正作業、広告のチラシ作成などを楽しみながらしたようだ。近代文藝社の編集者の方も親切で、出版後も本の雑誌ダ・ヴィンチに広告を出してくれるなど出版費用以上のことをしてもらって有難かったと言っている。これは第2巻も同じだった」
「でも、幻冬舎ルネッサンス新社から出版された、『こんにちは、ディケンズ先生』の第1巻改訂版、第2巻改訂版、第3巻、第4巻はダ・ヴィンチへの広告は社の方針か何かで載せられないということで船場さんは辛かったと言われていました」
「そりゃあそうだよ、出版業界に何のつてもない船場君の唯一のよりどころとなるダ・ヴィンチにも広告が掲載されないということになると一般の人が船場君が本を出したということを知ることが全くなくなってしまう。船場君は、編集者の方が一所懸命頑張って下さってとてもよい本が出来たと言っていたのだが、ダ・ヴィンチに広告が乗らなかったことは可愛いわが子がみんなに相手にされないで消えていくようで哀しいと言っていた。それにコロナ禍による影響のためか、もう一つ頼りにしていた大学図書館の受け入れもしてもらえなかった。それでも諦めきれず、1年間はじっと楽しい思いができると確信して待っていた。しかし第3巻、第4巻が出て1年しても何も起こらないことがわかり、ようやく船場君も自分だけ特別という考え方を諦めた」
「そうですね、普通は懸賞に応募してそれで賞がもらえて初めて道が開けます。船場さんの場合、まず賞をいただいてからというのではなく自分勝手に自費出版してしまったわけですから、後に引けなくなったわけですね。沢山の大学図書館、公立図書館に受け入れられたのは有難かったのですが、船場さんが傲慢になってしまった」
「まあそのあたりのことを充分反省して謙虚になって、これから船場君は地道に懸賞小説を書いて応募することだろう。お母さんがお家に戻られて生活も落ち着くわけだから、仕切り直しして正攻法で攻めて楽しい小説を本にして残してほしい」
「そうですね、まだまだこれからですよ。船場さんもそう思ってこれからも頑張られることと思います」
「わしもそう思うよ。だからわれわれも船場君のご母堂へのサポートに負けないように船場君をサポートしてやろうと思うんだ」
「そうですね、そのように頑張りましょう」