プチ小説「こんにちは、N先生 57」

私はライカM6を購入して25年、ライカM9を購入して間もなく4年になるのですが、レンジファインダーのライカカメラの魅力に取り付かれています。ライカカメラはどちらかというと一眼レフのRシリーズよりレンジファインダーのMシリーズに魅力を感じます。なぜなら古いレンズの使用も可能で、例えばスクリューマウントアダプターを間に挟んで、65年以上前に発売された赤エルマー(エルマー50ミリ F3.5沈胴式)を使用することも可能(もちろん露出計も距離計も使えます)で、ノクチルックス、スーパーアンギュロン、トリエルマーなどは高額ですが、私が持っている、M6やM9に取り付けることができるので一度は使ってみたいと思っています。とはいえノクチルックスは中古でも100万円から150万円しますから、ネット画面で指をくわえて涎を垂らすしかありません。それでも希望ゼロではないと銀座に行く機会があると、カツミ堂を覗いたりします。今までカツミ堂で赤エルマー、エルマー90ミリ沈胴式、ズミクロン50ミリを購入したことがあり、店員の方も感じがいいからです。年配の店員の方とカメラ談義をしていると、N先生が店に入って来られ、ニコンがほしいと言われました。店員さんがニコンの何をお求めですかと言われたので、先生はFがいいと言われました。店員さんは、Fは露出計が内蔵されていないので、初心者向けではありません、F2やF3の方が使いやすいですよと説明されました。横で話を聞いていた私は初心者がニコンF2やF3のようなごついカメラを使えると思えなかったので、老婆心が湧きたって来ました。
「N先生、先生はカメラ経験が長いのですか。私は初めて一眼レフを手にしてから48年になりますが、私がカメラを始めた頃、高級カメラと言われて憧れていたニコンF2フォトミックを購入されるのでしょうか。私は使いやすいということで、25年前にライカを購入するまではずっとオリンパスOM1でした。出来上がった写真の色合いが気になるのなら、ニコンやキャノンがいいでしょうが、一眼レフでそこそこの写真が撮れればよいのなら、オリンパスやペンタックスでもよいのではないかと思います」
と私が言うとN先生は言いました。
「ぼくがカメラを購入するのは専らインテリアとしてなんだ。ライカM3もニコンFと同様に露出計がついていないが、格好いいカメラだから客間の置物としてぴったりなんだ。ニコンFもそういう目的で買いに来たから、露出計のあるなしはあまり関係がないんだよ」
「そうですか、ぼくはずっとカメラは使ってなんぼのものと思っていたので、インテリアというのはもったいない気がします」
「でも今の時代はニコンFもF2フォトミックも3万円足らずでボディが買えるのだから、ライカM3に比べれば安いもんだよ。M3はボディだけでも20万円以上するからね」
N先生がそう言われながら、ニコンFのボディを購入されたので、一緒に外に出ました。
「君は4年前に有楽町駅前のライカショップでM9を購入したが、あまり使っていないようだね」
「そうですね、コロナ禍であまり外出できなかったですから。でも素晴らしい機能のカメラですから、今から頑張ります。花火、夜景をはじめいろいろな景色を撮って、ホームページに掲載できればいいなと思っています」
「人物は撮らないのかな」
「人を撮るのは苦手ですね。それに何のつながりもなく、モデル代も払っていない人にカメラを向けて写真を撮ってもいいのかと思います。特に最近はそういうのが嫌がられます。パリアッチ(道化師→道化もの)ならまだいいですが、パパラッチと言われるのは避けたいです。話は変わりますが、最近、松本清張の『十万分の一の偶然』という長編小説を読んだのですが、松本清張がカメラファンでご家族の写真をよく撮られたということを知り、親近感が増しました」
「どんな小説なのかな」
「十万分の一の偶然のシャッターチャンスを生かして、交通事故の迫力ある写真を撮った40代の男性がいて、この人は、チャンスを生かして素晴らしい写真を写したと激賞される一方なぜそのような事故が起きているのに写真を撮っていたのかと新聞に投書され疑問視されたりもします。この事故で6人の人が犠牲になったのですが、その被害者の中に23才の女性がいてその婚約者が疑問を感じてひとりで事故原因を調べます。そうして事故が写真の賞を取った男性が引き起こしたもので、しかもそれをそそのかしたものがいて二人は師弟関係だったことがわかります。婚約者の男は調べていくうちにふたりの男性の犯した悪事を知りますが、物的証拠が残っておらず証明できないと考えます。警察による解決が出来ないと考えた彼は大切な婚約者を奪った2人の男性に対して復讐することに決め、最後の3分の一はその復讐劇となります。この作品が書かれたのは松本清張が71才の頃ですが、トリックがわかりやすく、ふたりの悪人と被害者の婚約者のやることが派手で港の荷上場のクレーンに登ったり、麻薬入りのタバコを吸わされた50代の太った男性が鉄塔に登ったりします。『ゼロの焦点』『眼の壁』『砂の器』『Dの複合』のような緻密な構成ではないですが、話題性というのはそれら以上にあると思います」
「話題性と言うと」
「私が中学生の頃だったと思うのですが、報道写真ブームのようなものがあり、この小説のように最優秀賞何十万円とかの懸賞付きで報道写真の優劣を競ったものでした。そうしてこの小説の中で言われているように、炎の中で人が苦しんでいるかもしれないのに何もしなかったのかという話も出ていたと記憶しています。この小説が出版されたのはそれから数年後だと思いますが、報道写真のあり方、写真の被写体は何がふさわしいのかということについて一石を投じたのは間違いないと思います。白黒とカラーの撮影のためにカメラ本体は最低2台必要で、できれば広角レンズ、望遠レンズ用にあと2台、ガイドナンバー32以上のストロボ、連写用のオートワインダーとそれらを収納するための巨大なカメラバッグが報道写真家を志す人には必要で、常にそれを担いでいなければシャッターチャンスを逃してしまう。こういったムードが写真機器のメーカーの売り上げに貢献したでしょうが、ひとつ想定外なことが起きました。それは報道写真といものの中には悲劇的なものが多く、しかも類似したものが多いということ。折角、大きな荷物を担いであちこち歩き回って(飛び回って)撮影した写真が、悲惨だとかなぜ助けなかったか、以前似たようなものがあったと言われて賞賛されない。これでは写真を撮ることに喜びがないと感じる人が多くなり、生活の中の喜びに目を向けるようになりました。それは人の喜びや心が動かされた瞬間を切り取るというやり方ですから、高級カメラでなくとも、ピントがきちんと合っていてブレがなくて正常な露出で写真を撮影できさえすれば、後は撮影データを残せば立派な作品になります。言葉が悪いのですが、こういったサロンで見せ合って合評するような写真が主流になって行き、迫力ある報道写真を撮るためにあるだけの時間を費やすという人はほとんどいなくなります。それを決定的にしたのがこの小説だとは言いませんが、大きな賞を設定したりしてやりすぎの感じがする迫力ある報道写真の推奨を抑えたのがこの小説だったと私は思うのです。こんなことを言うと著者は、そんなつもりはないよと笑われそうな気がしますが、ご家族の写真を楽しそうに撮っておられる方が、絶対こっちの方が楽しいよと言われるのはありそうな気がします」
「まあ、長年写真を撮って来て、写真関連のことにずっと興味を持っていた君のことだから、まったく外れているとは言えないだろうが、高級写真機材に手が出なかったので、負け惜しみをこの機会に言ったというのは当たっているだろう」
「そうですね、資金がなかったので、サロン的な写真を撮るしかなったと言えるかもしれませんね」