プチ小説「宇宙人とのクラシック四方山話」
福居は京都府立植物園で花の写真を撮るのが楽しみだったが、昨年の夏以来訪れることがなかった。
<昨年の7月で仕事を辞めてしまって、11月頃までは何やかや忙しかった。落ち着いたと思ったら、母親が緊急入院となった。5月になってようやく母親の病状も落ち着いたが、それまでは自分の趣味どころではなかった。こうして京都府立植物園に出掛ける気になったのも落ち着いたからなんだが、今の時期はこれといった花がない。ネジバナが園内のどこかに咲いてないかと思ったが、見つからなかった。今日はサボテンの花が咲いていたのと昼夜逆転室で花が開きかけの月下美人を見たくらいかな>
福居が噴水の近くのベンチに腰掛けて帰り支度をしていると、聞き馴染みのある声が近くでした。顔を上げると、最近引退したイニエスタに似た筋肉質の男性が笑顔で話し掛けた。
「シャシンイイノガトレマシタカ」
「まままあです。例えば、梅、桜なんかは撮っていて楽しいのですが、今の時期はそういう花がないので、珍しい花を見つけられたらラッキーという感じです」
「ソウナンヤネ。チョットメモシトコ。トコロデ、ワタシハマエニモハナシタコトガアルノデスガ、ウチュウジンナノデス」
「そうですね、小学校の校庭でそう言われてましたね。確かM29800星雲からやって来たと言われてましたね。でもMはメシエの略でメシエが名付けた星雲が29800個もあったのかなと思います。確か103個じゃなかったかな」
福居の反応に宇宙人は気分を害したようだった。
「アンタ、ソラチャウデ。ワシノMハナ、マイ星雲のリャクヤガナ」
「するとあなたは故郷のお星では天文学者なんですね」
「ソウデッセー、マイバンボウエンキョウノゾイテナ、星雲、星団、銀河、彗星ナンカヲミトルンヤ」
「ぼくも星に興味があるから、昨年行けなかった伊吹山の星空観察会にこの夏は行きたいと思っているんです」
「ソウカ、アンタガテンモンニキョウミアルンヤッタラ、ワタシニナンデモキイテヤ。オシエタルカラ。ソノカワリ、ワシモアンタニオシエテホシイコトガアルンヤ」
「そうですか、写真とか植物ですか」
「ソウデハナクテ、ハイ、クラシックオンガクナンデスヨ」
「一万光年とか一億光年とか離れたお星でクラシック音楽を聞いておられるんですか。そしたらCDをたくさん持っておられるんですか」
「イヤ、ワシハアナログ派ヤカラ、LPトSPダケヤネン。キョウハ交換バリヲカイニキタンヤ」
「クラシックはどのようなものを聞いておられるのですか」
「ワシノチチオヤガチキュウノオンガクニキョウミガアッテ、チイコイコロカラステレオデクラシックヲキイテタンヤガ、チチオヤハレコードヤサンデハレコードハカワンカッタ」
「じゃあ、どこで買われたんですか」
「弘法サント天神サンデヤッタ。オトクヤカラネ。ソコデウラレルノハ1970年代ニ本屋サンデウラレテタ全集、クラシック音楽全集トカ映画音楽全集チュウノヤッタ」
「そうか、でもそれでは限られた曲になりますね。「運命」「田園」「未完成」「白鳥の湖」「トルコ行進曲付き」「水上の音楽」「G線上のアリア」「四季」「トッカータとフーガニ短調」「新世界より」「ユモレスク」「トロイメライ」という標題が付いたのばかりで、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番とかモーツァルトのピアノ協奏曲第27番とかベートーヴェンの交響曲第7番などの名曲は番号だけが頼りなので何番か知っていないと探せないですね」
「ソレモメモシトコ。ホンデー、チカラヲカシテホシインヤケド、タトエバベートーヴェンヤッタラナニガエエンカナ。テミジカニイウテチョウダイ」
「ベートーヴェンですか。はっきり言って一言では無理です。でも要点を言いますと、交響曲、ピアノ音楽、弦楽器音楽、室内楽曲が4本柱だと思うのです」
「ソウカナ、交響曲ハエエケドアトハピアノ・ソナタト弦楽四重奏曲ナントチャウンカ」
「それだと私が好きなピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、トリプル・コンチェルト、10曲のヴァイオリン・ソナタ、5曲のチェロ・ソナタ、七重奏曲、ピアノ三重奏曲「大公」が抜け落ちてしまいます。私が分けたものでお付き合い願います」
「スキニシイヤ」
「まず交響曲ですが、どの曲も今まで何度か聞いていますが、やはり第1番、第4番、第8番は好きではありません。彼の他の交響曲にある最初から最後まで持続する緊張感がないからです。それが顕著なのは第8番ですが、私は第7番と第9番の間に創作されたこの曲に何度か失望させられました。その他の交響曲の名盤を順番に一つずつ上げると、第2番はクレンペラー、第3番はフルトヴェングラーのスタジオ録音、第5番もフルトヴェングラー1947年盤、第6番はベーム、第7番(ユニコーン盤)も第9番(バイロイト祝祭管弦楽団他)もフルトヴェングラーとなるでしょう。ピアノ音楽ではピアノ協奏曲とピアノ・ソナタを取り上げますが、ピアノ協奏曲全曲はやはりバックハウスでしょう。長年この名盤はケンプだと思って来ましたが、第1番、第3番、第5番を聞くとバックハウスの溌溂とした演奏に惹かれます。ピアノ・ソナタは色々ですが、横着しないで順番に言いますと、第4番はベネデッティ=ミケランジェリ、第8番はゼルキン、第12番はリヒテル、第14番はバックハウス、第15番はグルダ、第17番はケンプ、第22番はバックハウス、第23番はケンプ、第26番はケンプ、第32番はグルダとなります。次の弦楽器音楽はヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタが入ります。ヴァイオリン協奏曲とヴァイオリン・ソナタはオイストラフ、チェロ・ソナタはカザルスとゼルキンです。室内楽曲は七重奏曲、弦楽四重奏曲第7番と同第10番、「大公」以外はあまり聞いていないのですが、七重奏曲はウラッハとバリリが共演したもの、弦楽四重奏曲第7番はブダペスト四重奏団、弦楽四重奏曲第10番はウィーン・コンツェルトハウス四重奏団、「大公」はカザルストリオがよいと思います」
「荘厳ミサ曲、歌劇「フィデリオ」、ピアノ・ソナタ第29番は名曲トチャウノン」
「特に第29番「ハンマークラヴィーア」はいろんなレコードを聞きましたが、最後の楽章がいつも物足りなく感じます。ベートーヴェンのピアノ・ソナタの場合、第8番、第14番、第23番、第32番のような最後の盛り上がりが素晴らしいと思うので、最後に盛り上がらない第29番はつまらない曲になります。荘厳ミサ曲、歌劇「フィデリオ」も全体を貫く緊張感がないので聞くことはないと思います」
「ローマハイチニチニシテナラズナンヤロネ」
「そうですね、月に1回給料が出たら中古レコード屋に行くのを楽しみにしていた時期が20年余り、クラシック音楽を聞き始めての最初の10年はレコード芸術をよく購入しました。私がプレミアム盤に目覚めたのは、京都の中古レコード店で購入した、デニス・ブレインのリヒャルト・シュトラウスのホルン・コンチェルト第1番を聞いて、素晴らしい音だと思った時からでした。CDを聞いていてはいつまでたってもそういう体験はできないでしょう。切っ掛けがなければ時代と共にクラシック音楽離れが進んで行きやがてはクラシック音楽を聞く人がいなくなるんではと思っています」
「ソレハイケナイ、アナログ盤ノヨサヲハヤクキヅカセタッテ。ソヤナイトレコード文化ガナクナッテシマウ」
「そうですね、特にクラシック音楽は最も危うい。ヴァイオリンやチェロの繊細な音をデジタル処理できると今でも思われているのでしょうか。それが一番心配なところです」