プチ小説「こんにちは、N先生 58」

私は最近昼食代節約のため、雨天でない限りは大学の西広場近くのお弁当のコーナーで507円の弁当を購入し、西広場で食事をしています。いつものように、唐揚げ、ハンバーグ、トンカツ、ミンチカツ、野菜炒め、中華弁当の中からどれにしようと看板の前で考えていると、側で、私は15食限定和風弁当にしようという声が聞こえました。それはN先生でした。
「君も私の考えと同じだと思うが、君の出身大学は施設がきれいだし、食堂が完備されているからお昼が楽しみなんだ」
「そうですね、大きな食堂も2、3ありますし、弁当屋さんもありますし、中央広場には販売車が来ますし...でもここのお弁当が安くてお腹がふくれますから私には一番いいです」
「そうか、私はいつもステーキ弁当を食べた後、クレープも食べるんだが、君の場合は学生さんと同じように倹しく過ごすのがいいのかもしれない。今日は君につき合わせてもらうよ」
N先生は和風弁当、私はみそだれトンカツ定食を買いました。
「昼に倹約をしたとしても、毎晩、焼肉とビールというのでは駄目だと思う」
「酒焼けした顔、炭水化物取りすぎの腹、運動不足で細くなった脚は学生らしくないので、彼らと一緒に居て目立つことがないように気を付けています」
「そうは言っても君の体調が最も良かった45~51才の頃の様には行かないだろう」
「あの頃は筋トレだけでなく、山登りもしていましたから。体重も今より10~15キロ少なかったですし」
「仕事を辞めて改善するかと思ったけど、そうは行かなかったようだね」
「原因不明の全身掻痒感がずっと続いていましたし、1ヶ月くらい前から右足が異常に腫れて来ました。母親の勧めで開業医から病院に変えたところ、腫れが治まり、かゆみもなくなりました。それまで病んでいた身体が何とか前と同じような状態に戻せるスタートラインに立ったという感じです」
「どういうことかな」
「昨年7月に仕事を辞めてから、大学の行き帰り歩いたり(往復およそ7キロ)、ハードに筋トレをしたりしましたが、よい結果が出ていません。体調がよくなかったので、ジョギングは控えてました。山登りにも行ってません。この調子で体力が回復していけば、11月くらいからジョギングを再開できるかもしれません。そうして来年の5月には比良山に行けるかもしれません」
「でも、昨年、伊吹山に行った時は下山が大変だったんだろ。山を甘く見たら、取り返しのつかないことになるかもしれないよ」
「そうですね、比良山に登るのは充分トレーニングしてからにします」
「ところで最近、どんな本を読んだのかな」
「西洋文学は猪俣和夫訳『ペーター・カーメンツィント』を読んだくらいで、あとは松本清張ばかり読んでいます」
「何を読んだのかな」
「『葦の浮船』『水の炎』『黒の様式』『黒い樹海』を読みました」
「どんな内容だった」
「『葦の浮船』は「婦人俱楽部」、『水の炎』は「女性自身」、『黒の様式』は最近休刊になった「週刊朝日」、『黒い樹海』は「婦人倶楽部」に連載されたものが本になりました。どれも最後近くまで熱中して読みました」
「最後近くまでということは結末に納得行かなかったということかな」
「そうですね、特に『葦の浮船』と『水の炎』は松本清張の小説の中の「現代ロマン」に該当するのだと思うのですが、両小説とも主人公が女性(『葦の浮船』は近村達子、『水の炎』は塩川信子)でどちらもヒロインの強い意志が脇役の男性たちに大きな影響を与えます。自殺したり、将来有望な学者が失墜したり、夫が破産したり、最後まで恋愛感情が続かず袖にしたりで気の毒な男性がたくさん出て来たという印象です。もしヒロインがやさしい性格の女性ならもう少し落ち着いた結末になったのではと思います」
「『黒の様式』はどうだった」
「『黒の様式』には3つの小説が収められています。『歯止め』『犯罪広告』『微笑の儀式』ですが、どれも凄い小説です。特に『歯止め』は内容が凄すぎてここに感想を書くのが憚れます」
「そうなのか、じゃあ、こっそり読むことにしよう。『犯罪広告』はどうだったかな」
「暴力で犯罪を時効に持って行った犯人に対しその近親者が悪事を暴く(復讐する)という内容ですが、悪人が悪知恵に長けているのでなかなか尻尾が摑めません。でも結局悪い人のウソがばれてスカッとするという話です。これは面白かったです」
「じゃあ、『微笑の儀式』はどうだった」
「笑気ガスを吸った後に炭酸ガス中毒になって死んだ女性の顔が国宝クラスの仏像の顔のように魅了するものなのかはよく分かりませんが、それをせずにおられなくなった才能がない追い詰められた芸術家の心情はわかるような気もします。解剖学者が謎を解き明かしていくというのは、『巨人の磯』と同じ趣向で、松本清張は現場の人から興味深い話を聞いてこの小説を書いたような気がします」
「『黒い樹海』も「婦人倶楽部」の連載小説だったから、「現代ロマン」なのかな」
「いいえ、この小説も女性が主人公でヒロインが同じ職場の男性の協力を得て事故に遭った姉を放置した人を探すのですが、それに関連して3人の女性が殺されるのですが、小児科医長が大好きなナイトクラブがしばしば登場し、またかいなと思いますが、最後の謎解きのところはなるほどと感心させられるところがあり興味深く読みました。4つのうちでは一番面白かったです」
「次は何を読むのかな」
「『蒼い描点』ですね。あと『黄色い風土』『草の陰刻』『影の地帯』『波の塔』『球形の荒野』『黒革の手帖』があるので、今年中は楽しめそうです」
「そしたら西洋文学はしばらくお休みだね」
「『緑のハインリッヒ』を頑張って読んでいますが、地の文が多く会話文がちょっとなので、4巻本ですし時間がかかりそうです」