プチ小説「耳に馴染んだ懐かしい音 17」

二郎が四条通にある日野屋でカレーを食べて烏丸駅の方へ歩いていると、後ろから声が掛かった。
「二郎君お久しぶり、元気にしてる?」
二郎が後ろを見ると森下さんのおばちゃんが満面の笑みを浮かべて二郎を見ていた。
「ぼくは元気ですが、おばちゃんはお変わりありませんか」
「長いトンネルだったけど、ゴールデンウィーク開けにマスクも付けなくてよくなったしいい方向に行っているんじゃない。それでわたしもいい感じよ」
そう言いながらマスクをつけているのは、おばちゃんらしいなと二郎は思った。
「確かに緩和されましたが、かかると大変ですから、用心は必要だと思います。マスクをつけなくて叱られることはあっても、マスクをつけていて叱られることはないですから」
「そうよね、化粧の心配をしなくていいし」
「でも、マスクを取ったら口紅がないとさみしいです」
「ふふふ、その気持ちわかるわ。今日はちゃんと付けているから、近くのコーヒーショップに入りましょうか」
「そうですね、この辺りはコーヒーショップが多いですからね」
おばさんは最近入ることが多いと、錦烏丸のホリーズカフェに二郎を連れて行った。
「ここはねジャズのBGMが流れているけど、おしゃべりは自由なの。ビジネスマンも多いけど外国人も多いわ。家族、観光客、ライターの人で賑わっているわ。わたしはここでホットコーヒーのLサイズを頼むことが多いかな」
ふたりがコーヒー、ミルク、グラニュー糖ステックを盆に乗せて店内を見回すと角の4人掛けのテーブルが空いているのが見えた。ふたりはそこに向かい合って座った。
「あっ、この曲、聞いたことがあります。確かアン・バートンのバラード&バートンというアルバムの最初の曲「宵のひととき」ですね」
「そうなの、二郎君はジャズも詳しいのね」
「そういうおばちゃんは詳しくないんですか」
「わたしはやっぱりクラシックの方が好きだわ。でもたまにはジャズも聞きたくなって、ここに来るのよ。この前、友だちとここに来たら、選曲のセンスがいいと言っていたわ」
二郎はアン・バートンの曲が終わったところで話を続けた。
「ところでクラリネットのレッスンの方はどうですか」
「コロナ禍で長い間自粛していたけど、昨年の10月からレッスンを再開したの。しばらくは個人レッスンを受けるつもりだけれど、今年になって3年ぶりの発表会の話が出て先週その発表会があったの」
「おばちゃんも出られたのですか」
「もちろんそうよ。だって好きなことを一所懸命するのは素敵なことだわ。趣味というのはこつこつしているだけでも楽しいけれど、それを第三者の目で評価してもらうのは意義あることだし、それがうまく行かなくてもいい思い出になるわ。失敗を恐れたり恥ずかしがって発表会に出ない人がいるけど、わたしは必ず出さしてもらうの。ひとつのことを極めるとなると先生も一所懸命に指導してくださるし」
「そうか、発表会と言うのはただみんなの前で成果を見てもらうだけではないんですね」
「それだけで発表会に参加するのはもったいないと思うわ。わたしは上手じゃないから、いつも演奏した後には不満が残るわ。でも熱心に先生が指導してくださってレベルアップしていくのはとても意義あることだし...何より、わたし個人レッスンだから、これがやりたいと言ったら、それを発表会で演奏できると言うのがいいわね」
「何を演奏されたんですか」
「「清らかな女神よ」というオペラのアリアなの。トランペットで演奏しているのを聞いて、美しい曲なのでわたしも演奏したいと思ったの。先生に相談したら、ピアノ伴奏ソプラノ独唱用の楽譜を買って来て、歌の部分を♯2つつけて2度あげれば演奏できますよと言われたの。それで楽譜を購入してクラリネットのパートの楽譜を書いて3月から練習を始めたんだけど、八分の十二拍子、間奏、カデンツァのところが難しくてなかなか思うような演奏ができなかった。最後はトランペット編曲のレコードを何度も聞いて慣れて行ったの。伴奏の先生の協力があったから、演奏が止まることなく最後まで演奏できたわ」
「そうですか、無事終わられたんですね」
「間違いだらけだったし、そこいら中で異音を鳴らしたわ。だから無事とは言えないわね。でも落ち着いて最後まで演奏したという感じかな」
「次はどうされるのですか」
「多分、来年も発表会はあると思うけど、開催時期が問題だわ。今年は6月だったけど、2020年までは1月か2月だった。かじかむ手で演奏するより暖かい時期の方が発表会には適していると私は思うの。発表会が来年の6月頃となると3月から発表会の曲を練習しなければならないけど、3月頃までは他の曲のレッスンが受けられるわ。わたし、たくさんの楽譜を購入したので、先生からご教示いただこうと思っているの。今までしばしばあったんだけど、先生がメロディをピアノで弾くと命を持ったようにわたしの頭の中で活動を始めるの。未完成交響楽のクラリネット用の楽譜があるけど、先生が演奏するのを一度聞いてみたい」
「ぼくがワンフィンガーでキーボードを押さえるのと違うんでしょうね」
「メロディとリズムがぴったり合って楽曲が生命を宿すという感じかしら。そうしてメロディとリズムがわかればわたしのような初心者でも演奏が出来るようになるわ。先生は楽曲に命を与える術を知っているわ」
「来年の発表会で演奏する曲は決まっているのですか」
「5年前と今回の発表会はモーリス・アンドレというトランぺット奏者がオペラのアリアを演奏したレコードを聞いて演奏したい曲があったから演奏したんだけど、ちょうど同じ頃にNHKFMで「夜の停車駅」という番組をしていたの。そのテーマ曲がラフマニノフのヴォカリーズだったの。アンナ・モッフォというソプラノ歌手がオーケストラ伴奏で歌っているんだけど、思うような楽譜がないの。ピアノ伴奏でソプラノ歌手が歌う楽譜を見つけて今回と同じ手順で演奏出来たら長年したかったことのひとつがまたできたということになるわ」
「そうですか、是非それが叶うよう祈っていますよ」