プチ小説「こんにちは、N先生 59」
先週の土曜日に発表会が終わったので、私は面白い自分でも演奏できそうな楽譜がないかと大阪駅前第2ビル2階のササヤ書店に出掛けました。「夕星の歌」や「ヴォカリーズ」の楽譜を購入してJR大阪駅へと地下道を歩いていると、つい先日閉館になった丸ビルの近くで、おーいと声が掛かりました。それはN先生でした。N先生はキャンペーンのティッシュを配っている男性と話してたら、君が通りかかったと言われました。
「先生、何か購入されるのですか」
「もちろん買わないさ。ただもらうだけでは申し訳ないので話を聞いたのさ」
「そうですか。これからどちらかに行かれるのですか」
「いや、君も発表会が終わったことだし、これから暫くの予定も立っただろう。それについてあーでもないこーでもないと意見を言い合うのは楽しいだろうと思って、君の前に現れたのさ」
「でも先生、あまり見通しは立っていないのです」
「ぼくも君のお母さんが昨年末に緊急手術を受けたことは知っている。それで今まで以上にお母さんの補助をしなければならなくなったことも知っている。でも君はクラリネットのレッスンも、LPレコード・コンサートも再開している。懸賞小説に応募すると言って母校立命館大学の図書館に週に4、5回行っている。昨年の7月に仕事を引退したから時間は今まで以上にある」
「でもお金がほとんどないんです。今までならLPレコード・コンサートは1泊2日で10万円近く使っていましたが、今は日帰りで5万円位の予算です。それに母親のこともありますから、長く家を留守にできません」
「でもかつかつでやっているんだったら、懸賞小説で選ばれないとお金を掛けて旅行することも出来ないんじゃないかな」
「そうですね、ですから一所懸命小説を書いているんですが、依頼があったとしても松本清張さんのようには絶対書けません。『影の地帯』の解説を読むと「同年代の作家にくらべたら、二十年、遅れているんだよ」とか「ひと月の生産量は九百枚(四百字詰原稿用紙)に達した」と書かれていますが、仮に新進気鋭の作家さんに比べて45年遅れでも、ひと月200枚位でしょう。それに並行して2つの長編小説を書くと混同すると思います。それからこれが一番大事なことですが、私の場合は自分でかみ砕いて取り込んで消化しないと地に着いた読み物にならないと思ってます。ですから純愛ものは絶対無理でエンターテインメント小説しかないということになります。でも年間2作は書いてそれを5年続ければ10作になりますし、それだけ活字で残せたら充分だと思っています」
「内容はどんなのを書くのかな」
「テーマとかは企業秘密で言えませんが、西洋文学、松本清張の小説などからヒントを得て楽しいものを楽しみながら書きたいと思っています。最近、読んだ松本清張の小説に『蒼い描点』がありますが、出版社に勤務する若い女性がたまたま事件に遭遇し同僚の男性と共に事件の真相究明を始めます。600頁以上あるのに3日ほどで読みました。遅読の私が1日に300頁以上読んだというのは初めてです。活字が大きかったので読みやすかったこともありますが、ヒロイン椎原典子がかわいらしく好感が持てる女性で松本清張はいろんな人物を生き生きと描けるんだなと思いました」
「君はストーリーよりも人物描写のお手本にしようと思っているんだね」
「でも彼の作品には読んでいて引きずり込まれるような話も多々出て来ます。エンターテインメント、読者をわくわくさせるためにはこうしたらええんよと言われているようです」
「『蒼い描点』の概略はどんなんだった」
「出版社に勤める典子が編集長の指示で新進気鋭の女流作家の原稿の回収に行きます。なかなか出来ないということで女流作家は箱根のホテルで原稿を書いています。すぐにできれば何も起こらなかったのですが、回収が捗らずそのため宿泊を延ばしたヒロイン典子は編集に携わる仕事をしていて悪いうわさがある田倉、女流作家の夫、田倉の妻などと関りを持ちます。そうして田倉の自殺、女流作家の奇怪な行動、田倉の妻の行方不明、田倉と編集長と女流作家の繋がりなどが複雑に絡み合って事件が進行して行きます。警察でないので限界はありますが典子は頼りになる同僚崎野竜夫を得て足繫く現場に出掛けて真相を明らかにしていきます」
「そうして真相が明らかになるが、犯人の遺書というのが何とも凄いものだ」
「便箋数十枚と書かれています(19頁)。それですべてが明らかになるんですが、これは素人探偵のふたりが事件を解決するためにこうするしかなかったという感じです」
「京都の同人誌「白川」の関係者の中に女流作家の父親、白井編集長、田倉がいて、別のメンバーの妹が田倉の妻の弟と共謀して事件を起こしている。原因は田倉の女癖の悪さだ」
「第一の殺人でその弟と一緒に居たトラックドライバーがゆすりを繰り返したため、弟に殺されている。このあたりは典子たちが推理出来ない部分なので遺書の中に詳細に書かれてある」
「他には盗作(代作)をしている人が追い詰められるところは深刻ですが、小川を靴と靴下を脱いで渡るだけの密室トリックがあったり、ありえない殺人方法(私は車から身を乗り出して短い棒で後頭部を強打して撲殺するのは殺しのプロでも難しいと思うのです)で田倉が殺されたり、失礼かもしれませんが少し苦笑いしながら読み続けました」
「案外、エンターテインメント小説として楽しめるようにそのようなツッコミが入れられるような場面を入れたのかもしれないね」
「そんな楽しい小説を読んで、たまに小旅行をしたりして、自分が読んでも楽しめる小説を書きあげてみたいと思っているんです」