プチ小説「こんにちは、N先生 60」

私は1981年4月から1985年3月まで北区衣笠にある立命館大学に通学していたのですが、徒歩で嵐山まで歩いたことは今まで一度もありませんでした。直通の市バスの路線(京都バスはそういう路線があったかもしれませんが)がなく、バスが山越(ほぼ中間地点)というところまで行くことは知っていました。その先に広沢池、大覚寺があり、嵯峨野があり、その向こうに嵐山があることはなんとなくわかっていたのですが、福王子の交差点を過ぎて山越に至るまではなんにもないといううわさを聞いていましたので行くのを躊躇していたのでした。それでも今日は天気が良かったですし今日を逃すと一生衣笠から嵐山まで歩くことはないと思い、人生に悔いを残さないようにと午後1時過ぎに大学を出て嵐山へと向ったのでした。福王子に大学時代の友人の下宿があり学生の頃はよく福王子まで歩いたものでしたが、それから先はほとんど行ったことがありませんでした。うわさ通り福王子から山越までで目立ったものと言えば精神科の病院と釣り堀くらいでした。それでも山越を過ぎて広沢池まで来ると、景色が開けて自動車や人の行き来も多くなってきました。嵯峨野を過ぎてJR嵯峨嵐山駅近くの踏切を渡っていると、後ろから聞きなれた声がしました。
暑いからそこの店でかき氷を食べないかと言われたのは、N先生でした。アンモモンプーソワ(Un Moment Pour Soi)というフランス料理のお店(ケーキバイキングで有名な店のようです)で宇治金時は1,200円しました。私はかき氷は300~350円と考えていたので迷いましたが、先生が奢るよと言われたので安心して入店したのでした。衣笠からこの店に来るまで1時間50分経過していました。店内にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタのBGMが流れ、ウエイターの方も髪の毛を短く刈られていてスマートな立ち居振る舞いでした。私が先生に、ここによく来られるのですかと尋ねると、かき氷が1,200円もする店にしょっちゅう来てたら、身が持たないよ笑いながらと言われました。先生はしばらくBGMを聞いておられましたが、ウエイターが注文を取りに来たので、ぼくはホットねと言われました。当然、先生はクールダウン(この日の最高気温は34度ありました)のために先生がかき氷を食べると思っていた私は先生がコーヒーなのに私がかき氷を食べて良いものかと戸惑いました。先生は眉間に皺を寄せて考え込んでいる私を見て、そんな些細なことで悩んでいたら君の額は、パイナップルのように縦横無尽の皺ができるだろう。君はクールダウンが必要だから宇治金時を食べたらいいのと言って私の分まで注文してくださりました。
「さあ、これでよし。コーヒーとかき氷が来るまで、君が最近読んだ本の話をしようか」
「先生、前回、お会いしてから3日しか経過していないんですよ」
「でも、君は『影の地帯』に夢中になって、700頁以上ある本を3日で読んだろ。昨日はこの文庫本を400頁近く読んだろ」
「ええ、確かにこの本は面白かったので早く読めたのですが、どこで殺人して、死体処理をどうしたかが話の核心部分で主人公と木南がそのことで試行錯誤するのが話の中心でした。最後の章に入るまで徐々に主人公が窮地に追い込まれ、はらはらどきどきの連続(犯人グループは4人殺します。主人公も3度殺されかけます)の小説でしたが、最後のところで主人公田代に犯人が自分の悪事を自慢げにお披露目して(解説して)そこに警察が踏み込んで終わってしまうのは物足りなく感じました。しばしば登場する小太りの男は河井文作とも製材工場の責任者とも違うようですが、悪者Aという役柄だったのでしょうか。最後のところで河井だけが目立っているという感じです。4人の人物(山川、木南、エルムのマダム、タクシーの運転手)を巧妙に足が付かないように野球のチームができるくらいの人数で計画的の殺して死体処理したのに、河井が田代に自慢げにべらべらしゃべってしまったがために犯罪がばれてしまったという感じです。複雑な犯罪の物語を終わらせるために必要だったのかもしれませんが」
「それに田代は狙撃されたのに音で敏感に反応して弾を躱したり、村の集会所に監禁されて殺されそうになった時に一目惚れされた女性に助けてもらったり、最後のところでは絶体絶命のピンチをやり過ごしてすぐにすきやんに愛の告白をしている。この人物は頭が切れて、女性にモテるんだろう。田代はフリーの売れっ子カメラマンだが、ジェームズ・ボンドに似たところがある」
「そういう登場人物を創造できる小説家をぼくは尊敬します」
「次は何を読むのかな」
「『草の陰刻』を明日から読みますが、『黄色い風土』『黒革の手帖』『球形の荒野』『波の塔』『風の視線』『花実のない森』はすでに購入済みです。それらを読んだら『霧の旗』「黒い福音』『わるいやつら』『けものみち』『ガラスの城』『美しき闘争』『犯罪の回送』『風紋』なんかも読んでみたいと思っています」
「本を楽しんで読むのは結構だが、読みづらくても西洋文学の古典をもっと読んでほしいな」
「『緑のハインリッヒ』も面白いのですが地の文ばかりなのが玉に瑕です。でも、頑張って読みます」