プチ小説「こんにちは、N先生 61」

西武高槻店が阪急高槻店に変わって3年9ヶ月余りになりますが、私は松坂屋高槻店の地下食料品街を利用することが多くて阪急高槻店に行くことはほとんどありません。ただ阪急高槻店には山廃仕込みの香住鶴が幾種類か陳列されているので、それを買うために半年に一度くらい寄ることがあります。いつものように5合入りの紙パックを持ってレジの列に並んでいると、N先生が私の後ろに並ばれ声を掛けられました。
「君は香住鶴の紙パックを買うようだが、一升瓶や4合瓶は買わないのかな」
「ぼくはある程度の味なら持ち運びに便利な紙パックを買いますね。でもここで買うより近くのセブンイレブンで玉乃光の300ミリ瓶を買うことの方が多いです」
「最近、君は日本酒をよく飲むようだが、ウイスキーや焼酎やバカルディ(ラム酒)はやめたのかな」
「私の場合バカルディやビールは身体に合わないようなのでやめました。発泡酒も自粛しています。焼酎のソフトドリンク割りやウイスキーのコーラ割はこれからも続けますが、日本酒の300ミリ瓶はあまり肴がいらないし手軽なので最近はこればっかりです。ポテチ、キムチ、くぎ煮とこれがあれば1時間くらいで楽しく酔えますし」
「そうだね、焼酎やウイスキーは肴肴肴では足りなくて肴肴肴肴肴はいるだろうから太るし君が言うのが正解かもしれない。ところで『草の陰刻』を読み終えたようだが、どうだったかな」
「松本清張の小説では、『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』『Dの複合』などはなんとなく小説の内容が把握できるのですが、この小説と『眼の壁』はどうしてこんな題名を作者が付けたのかなと首を傾げてしまいます。「草」は司法試験に合格して検事になって丸2年の新米検事瀬川のことのように思われますが、「陰刻」というのがわかりません。ネットで調べると「文字をくぼませた彫り方。盛り上げるのは陽刻」となっています。結末に結びつけて考えると「辛酸なめ」とか「教訓」とか「陰影」とかならわかりますが、「陰刻」というのは将来に影を落とす深刻な不始末という意味なのでしょうか。でも『眼の壁』と同様に最後まで結末が読めない面白い小説でした」
「どんな出だしだったかな」
「32才の検事になって2年経つ瀬川は松山地方検察庁杉江支部(架空の地名 宇和島が舞台と思われる)に勤務している。ある日、部下の事務官と事務員が当直勤務の時に無断外出をして飲酒、しかも不審火が発生し事務官が焼死してしまう。瀬川は捜査を警察に依頼せずに自分で調べて、失火として報告してしまう。刑事訴訟法の改正(以下この小説からの抜粋「戦前は、検事が警察の捜査を指揮することができた。検事は殺人事件でも、強盗事件でも現場に臨み、捜査方針を立て、署長や捜査主任を指揮命令できた。しかし、戦後、刑事訴訟法の改正で、特殊な事件、たとえば、汚職、選挙違反を除くと、検事は警察の捜査にタッチできず、事後の報告を聴く程度になっている。つまり、検事は警察署から送られてくる捜査書類によって起訴状を書き公判に臨むだけとなっている。」)により、検事の捜査に関する権限がほとんどなくなり、もし警察の捜査が納得できるものでないなら事務官とで捜査することになるが、それではどうしても不十分な捜査になる。瀬川の場合も検察庁支部の建物の出火なので警察に捜査を依頼するわけに行かないと思い、自分と同僚の事務官と捜査することになります」
「警察に依頼できないので、瀬川は仕方なくスネークダンサーの話を訊くために2回小屋に出掛けたりする(2回目の時は長時間小屋にいる)が、かえって深みにはまってしまうんだ」
「小屋でダンサーのマネージャーに名刺を奪われたりして、汚名挽回とばかりに昔の殺人事件の担当者だった検事に連絡を取ります。そのことを犯人に知られたため、その検事は車に轢かれて死んでしまいます」
「瀬川はその検事の娘ならもしかして当時のことを知っているのではないかと親しい間柄になるが、肝心のところを話さないのでますます自分の立場を不利にしてしまう」
「こう考えてみると、「陰刻」というのは瀬川がよく調べもしないで本庁に失火と報告してしまったが、後になって重大事件の証拠隠滅のための放火とわかり、自分の失策を打ち消すために奔走する。ところがかえって傷口を深くしてしまい、自分の人生に消すことが出来ない悪い履歴(陰刻)を残してしまうというのが著者の言いたかったことかもしれませんね。メインストーリーは瀬川が放火事件を解決するために奮闘するところなんですが、瀬川の恋愛、スネークダンサーの地方公演の興行主の悪事、代議士の過去、代議士の悪事など、どちらかというとビターテイストなサブストーリーがあり、それも興味深く読みました」
「とにかく32才で若くてエネルギッシュとは言え、検事の仕事は激務と言える。瀬川のように情熱を持って仕事に当たる若いジュリスト(法律家)が困らないように回りの経験年数の長い検事が支えてあげてほしいと私は思うのだが...そうすれば将来大きく羽ばたくかもしれない」
「ぼくもそう思います」
「ところで、もうひとつの『眼の壁』の意味はわかったかな」
「手形詐欺の話ではじまりその責任を取って担当者が自殺、そのあとにいくつかの殺人がありますが、一度読んだだけではわかりませんでした。ネットにも「(『眼の壁』というタイトルにした意図が)わからない」とありました。壁というのを障害物という意味に理解すると犯人のあちこちに張られたネットワーク(眼)で素人探偵が苦戦するという話ではなかったでしょうか」
「次は何を読むのかな」
「『花実のない森』を読み始めましたが、それを読み終えたら『黄色い風土』を読もうかと思っています」