プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生51」
秋子はめずらしくいらいらした表情を見せて、小川に話し掛けた。
「上野公園に来て、どこかでお弁当を食べようと思ったけど、なかなかいいところがないわ。不忍池も動物園の
前の広場も、人通りが多いし。やっぱり飲食店で食事をしないと駄目なのかしら」
「せっかく、秋子さんが作ってくれたんだから、どこかで食べよう」
ふたりはしばらく上野の森をさまよったが、どうしてもふたりの昼食のための良い場所が見つからないので、
結局、上野動物園の前の広場でふたりが腰掛けられるスベースを見つけて、腰を下ろして、弁当の包みをといた。
となりに50代くらいのおばさんがいて、三味線で民謡を演奏していた。
「東京にはこうした憩いの場が多いんだけれど、京都の円山公園や嵐山のように座ってすぐにお弁当が食べられる
ようなところがないわね。ほら、しだれ桜の側や桂川の河岸のような」
「東京にはたくさんの人がいるから、常に一所に留まっていられないんじゃないだろうか。それがいい意味で
言うと活力を生み出している。また京都はと言えば、古都で観光地だけれどそういうのんびりしたところが
東京と違う魅力になっているのかもしれない。秋子さん、ごちそうさま。じゃぁ、次はどこに行こうか」
「そうね、JRお茶の水駅で降りて、神田の古書街に行きましょうか。途中、楽器屋さんに寄って、楽譜も見たいな」
秋子はモーツァルトのセレナード第12番K.388の楽譜を手に取ると、小川に言った。
「実は、この楽譜、前からほしかったんだ。第11番K.375と同じように、ホルン、オーボエ、クラリネット、ファゴット
それぞれ2本ずつで演奏するのよ。この曲を演奏するためには、たくさんの仲間が必要になるので今のところは
無理だけれど...。でも、モーツァルトの室内楽を一緒に楽しんでもらえる人がいてくれたら、至福の喜びなんだけど」
「残念ながら、僕は聞くのが専門で一緒に演奏してあげられないけど、せいぜい応援させてもらうよ。今度、アユミさんと
コンサートをするんでしょ」
「そう、昨日まではそう思っていたの」
「昨日まで...」
「ふふふ、そうなの。もしせっかく結婚したのに、夫は平日は深夜にならないと帰らない。休日はぐったりしていて寝てばかり。
そうしたら、私は、私は何をして過ごせばいいんだろう。夫の家計を助けるためなら、好きな音楽くらい好きな時にさせて
もらおうかと思ったの」
「でも、君がしないと言ったら、アユミさんはがっかりするんじゃないの」
「そうかもしれない。でも、アユミさんは私たちなんかよりずっと大人だし、忙しい人だから...。そういうことで、アユミさん
との共演はしばらくお休み。だから、休日はふたりでどこかに出掛けることにしましょ」
「そうだね」
「もうすぐ2時だわ、早く風光書房に行きましょう」