プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生52」

小川と秋子は風光書房を訪ね、しばらく店主と話をした。店主からはディケンズの著書(翻訳物)の
新しい情報を得ることはできなかったが、店主もクラシック音楽好きで、店内にあるステレオで
しばしばクラシック音楽を聞いているとの話を聞き、先程、小川は秋子が演奏できれば至福の喜びと
言っていた、モーツァルトのセレナード第11番と第12番のレコードがあるか尋ねてみた。
「それなら、ウィーン・フィルの管楽器の奏者が録音したウェストミンスター盤が有名ですが、
 残念ながらここにはありません。第11番の第3楽章アダージョや第12番のすべての楽章は本当に
 すばらしいですね」
店主の話を聞いていた秋子は、熱く語った。
「モーツァルトは第12番の旋律が好きだったようで、弦楽五重奏曲第2番(K.406)に編曲しています。
 私もクラリネットをやっているので、憧れの曲なんです」

小川と秋子は満たされなかった欲求を充足させるために、セレナードの方を渋谷の名曲喫茶ライオンで、
弦楽五重奏曲の方を阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンで聴いて帰宅した。
帰宅して秋子が夕飯の支度をしているとアユミが訪ねて来た。しばらくアユミは玄関で秋子と話をしていたが、
秋子から声が掛かったので、小川はふたりがいるところに行き、しばらくふたりの話を聞いていた。
「ま、秋子の事情もよくわかったから、しばらくは活動を休止することにしましょう。でも、自分勝手な人間は
 私、大嫌いだから、今度そういうのを見つけたら、両足をつかんで天井に放り投げてやるわ」
そう言って、小川の足下を見たので、小川は思わず足を後ろにやった。

夕食後、二人で楽しく会話していたが、小川が将来のことについて話し始めると秋子は黙り込んだ。小川が優しく、
「子供のことは今考えない方がいいかな」
と言って肩を摩ると、秋子はその上に手を添えた。
「今日言えるのは5年以内に二人、できれば男女1人ずつほしいということ。女性に取っては一大決心なんだから、
 お願い焦らせないで」
そう言うと台所に行き、片付けを始めた。

小川は明日からの仕事に備えて午後9時には横になったが、すぐに心地よい疲れが睡眠を促した。
すぐに河岸の景色が広がり、ディケンズ先生がボートに乗って現れた。
「小川君、何とか窮地を切り抜けたようだね。でも、窮地だからといって、慌ててアクションを起こさないところが
 よかった。ところで私からのお願いがある。秋子さんは我慢強い娘だから、なかなか弱音を吐かない。だから、
 今回のようなことを避けるためにも、週に1度くらいは二人でどこかに出掛けて、話を聞いてあげるようにしなさい」
「はい、仰る通りにします」