プチ小説「たこちゃんの介護」
ナーシング・ケア シウダード・デ・エンフェルメラ (プ)フリーガー というのは介護のことだけど、2014年9月に父親のかかりつけ医に大学病院で診てもらうようにと言われるまで、ぼくは山登り、小説出版の準備、レコードコンサート開催、自著を受け入れてもらうために全国の公立図書館巡り、ホームページにいくつものプチ小説を掲載と毎日の生活を楽しんでいた。しかし翌月大学病院で父親が末期の腎臓がんであることが告知され、ぼくの生活は一変した。たまたま実家の隣の家(中古)が安くで売りに出されたため、親の面倒を見やすくなるからと購入することになり、それから3ヶ月ほどは手続きでばたばたした。その間に大学病院の救急外来を受診したりいくつかの検査をしてから、父親は手術を受けて手術は一応成功して2月には自宅に戻って来た。それから5月の化学療法(腎臓の機能を弱めるので抗がん剤治療はできない)を入院して始めるまで父親は普段通りの生活を楽しんでいたようだが、抗がん剤の治療を始めて2ヶ月もすると認知機能が落ちて来て8月に自宅に戻って来ると家族が誰かも認識できず言葉もなくただ寝ているだけになってしまった。それから後は近くのかかりつけ医(80床ほどの病院)に入院することが多かった(大学病院から転院しての入院から2回目の入院までの3~5ヶ月は自宅にいたと記憶している)が、亡くなる少し前に自宅で数日過ごした。金沢に嫁いだ妹が世話をするために1ヶ月ほど帰って来たり、弟夫婦が時間が許す限り寄り添ってくれたが、父親は2016年4月23日に85才で亡くなった。ぼくは父親の付き添いで数回大学病院に同行したが、2002年に実家を出て公団住宅に住むようになってからほとんど会話を交わすことがなくなった父と待合でのんびり話が出来たのはよかったと思っている。他に父親の排泄の世話をしたりしたこともあったが、父親の介護については公的な補助が受けられるようになり、家にいる時は妹の手助けもあったので2度目のかかりつけ医の病院に入院するまでは特に問題は起こらなかった。薬の副作用だと思うが、手術して大学病院から転院してリハビリ病院(かかりつけ医の病院)から自宅に戻った父親はまったく話せなくなり、ただ床に伏し、テレビを見て、ご飯を食べて、排泄をするだけになった。それでも父親が生きていてそこにいるというのは安心感はあった。父親が亡くなってからは母親の通院はぼくが付き添うようになったが、月に2回であるし2022年7月末で仕事はやめたので負担にはならなかった。8月からは出身大学(立命館大学)の図書館に通って、読みたかった小説を読んだり懸賞に応募するための小説を書くようになった。7月の終わり頃から母親は右むこうずねが炎症を起こして黒ずんで来ていると訴えたため、かかりつけの外科医、かかりつけ医に診てもらい抗生物質を処方してもらったが良くならなかった。8月になっても一向に改善しないため、以前ぼくがお世話になったことがあるS市民病院のM医師にかかることにした。1、2度かかって蜂窩織炎は改善していったが、治療の途中(あと1回受診で開業医紹介)で、直腸が穿孔し、母は大学病院で緊急手術を受けた。6時間ほどの手術で人工肛門を設置した。12月11日のことだった。12月30日まで大学病院に入院し、その後リハビリ病院に転院、2月25日には関連の老健施設に入所していたが、4月15日には施設を退所して自宅に戻った。施設に移る前にぼくから、人工肛門のパウチの取り換えは難しいかもしれないが、溜まった便を出したり、洗濯、食事(週に4回は一緒に夕食を食べている)は自分である程度できないと退所してからが大変であると伝えていたので、老健施設では困ることがないようにと母親は施設にいる誰より頑張ったようだった。戻ってからはケア・マネージャーがいろいろ手続き、交渉をしてくださり、訪問看護(パウチの取り換え、緊急時の対応)、ヘルパー(主に部屋の清掃)、デイサービス(入浴、パウチの取り換え)に支障が起きないように取り計らってくださった。こうしてほぼ以前と同じような生活が戻るかと思えたが、手指が思うように動かせないため1日5回以上の1時間近くかかる便出し、3度の食事、洗濯が大きな負担となり、骨休めのため月に1度2泊3日でショートステイに行くことになった。月に25日は無理でも20日くらいは大学図書館で過ごせると思っていたが、15日行ければ良い方という状況なんだ。トイレ、電機工事の立ち合いや自分の病院受診もあるから、仕事をやめていて良かったなとつくづく思うが、このまま月の半分以上を親の世話(ごはん、おむつ、ティッシュペーパー、トイレットペーパーなどの買い出しも含む)をしないといけないのか、せめて5分の3(18日)くらいは大学図書館に行かせてほしいと思うんだ。駅前で客待ちをしているスキンヘッドのタクシー運転手は70才は軽く超えていると思うが今でも元気で頑張っている。もちろん親の介護の話は聞いたことがないが、おそらくおふたりとも天国で暮らしておられることだろう。それでも親の介護を経験されたことはあると思うので、うかがってみることにしよう。「こんにちは」「オウ ブエノスディアス ほんで 先週までは テンゴ ムチョ カロール」「本当に今年の夏は異常気象のてんこ盛りでしたね。猛暑日、熱帯夜は過去最高とか、諸外国で山林火災とか、最高気温更新とか」「そんな中、船場はんはコロナになって大変やったやろ」「よくご存じで、母親に感染させたり、自分も咳がなかなか治らないので困りました。ところで話は変わりますが、鼻田さんは、お父さん、お母さんはご健在ですか」「いやふたりとも天国の住人や。わしは父親が50才近くになってからの子供やから、そらかわいがってもろうた。そやから老いて動けんようになってからはようお見舞いに行ったもんやった」「若い時に一所懸命働かれたから、70代で亡くなられたんですか」「いや、つい最近100才を過ぎてなくなったんや。老いて動けんようになってからが長かった」「お母さんは大変だったですね」「そう父親が老いて動けんようになって付き添って世話しとったんやけど、20年程したら自分の方があかんようになって。父親より10年早く死んでしもうた。ほんでわしもあんまり長いこと嫁はんの世話にならんでええようにこうして今でもお仕事頑張っとるわけや。船場はんももうちょびっとお仕事しとったら寿命が伸びたのにと思うんやが、自分でやめて懸賞小説を書くと決めたんやから頑張ってや。応援させてもらうから」「有難うございます。鼻田さんにそう言って励まされると勇気100倍です」「そうは言っても、第一に考えてほしいのはお母さんの健康や。自分でできることはやってもらったらええけど、ストレスがたまらんようにして長生きできるようにしたってや。あんたが一番世話になった人なんやから。ほんでー、船場はんは久しぶりにうさぎ跳びとリヤカーごっこを楽しんで帰って」「はい、久しぶりに楽しみます」