プチ小説「こんにちは、N先生 66」

今年の夏は猛暑日が続きそのためか私は体力が落ちて、8月初めにコロナ感染してしまいさんざんな8月でした。それでも9月に入って徐々に体力が回復して、中旬を過ぎるといつも通りの筋トレが出来るようになり生活も落ち着いてきました。重い体を引きずって大学図書館に辿り着くという感じでなくなり、軽やかな足で京都の街を歩いて大学図書館に乗り込むという感じに変わって来ました。今日も大学図書館で居眠りすることもなく本を読んだり小説を書いていた私は、午後3時半になったのでバス停に向いました。バス停にはN先生がいて、私が大学生の頃にされていたように微笑んで声を掛けられました。
「ようやく君は、ゴットフリート・ケラーの『緑のハインリヒ』(DER GRUNE HEINRICH デア・グリューネ・ハインリッヒ)を読み終えたね」
「ええ、最初は地の文ばかりだったので、1日10ページくらいしか読めなかったのですが、第3巻の終わり辺りから面白くなったので、それから10日ほどで全4巻を読み終えました」
「でも読み始めが7月だったから2ヶ月半ほどかかったわけだ」
私はなぜN先生が『緑のハインリヒ』の読み始めがわかるのか疑問に思いましたが、何も言いませんでした。
「ぼくは君が大学生の時に帰りのバスで話すようになってからしばしばこの本のことをそれとなく話していたんだが、覚えているかな」
「うーん、申し訳ないですが、40年も前のことなので覚えていないです。ドイツ語のテキストにゴットフリート・ケラー『緑のハインリヒ』と出ていたのは覚えていますが」
「君は当時旗揚げをしたドイツの政党「緑の党(ディ グリューネン)」というのを覚えていないかい」
「ああ、それなら緑の党の緑は自然のことで自然愛護の党だったとか...それくらいしか覚えていません」
「そう、そういう話をした時にケラーの『緑のハインリヒ』やヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』の話をしたんだが。君は今から、7、8年前にようやく『ウェルギルスの死』の方は読んだようだが、『緑のハインリヒ』は興味を持たなかった。でもようやく振り向いてくれて、読み終えてくれた。今日は沿道にちょうちん行列を設置して自宅には天井一杯に万国旗を飾って、ブロック牛肉の赤ワイン煮を食べながらワインで祝いたいところだ」
「そうなんですね、先生がそれほどこの作品を買っておられるのなら、『ウェルギリウスの死』のように強く勧めてくだされば35年後位に思い出して読んでいたかもしれません。ぼくが『緑のハインリヒ』を読もうと思ったのはたまたま外国文学で読みたいものがなくなり、ドイツ語のテキストに出ていたケラーの教養小説(ビルドゥングスロマン)を読んでみようと思ったのでした」
「で、どうだった。面白かっただろ」
「最後の最後までどう評価しようか迷いました。実際、この本を昨日読み終えようと思ったのですが、最後の2つのチャプター(章)は読めませんでした」
「ほう、それはなぜかな」
「根無し草のような生活を続けていたハインリヒ・レーが伯爵に後援してもらい励まされて画家としてやって行く自信を取り戻していくのですが、その間にハインリヒはお母さんと連絡を取らなくなり、また身元保証のための手続きで裁判となりそのことで心配させたためにお母さんは衰弱してしまい、久しぶりに家に戻るとお母さんは死の床に着いていました。そうして意識が戻らないまま亡くなってしまいました。ケラーは初版の『緑のハインリヒ』でこの後ハインリヒが再起することなく死んでしまうというストーリーにしたようですが、ケラーはその後社会的地位が高くなり、友人からの勧めもあって180度違った結末に変えてしまいました」
「その結末を君はどう思った」
「これから読む人のために楽しみは残しておいた方が良いと思うので詳しくは言いませんが、母親の死後、伯爵の励ましもあって仕事に励み郡長の役職に着くことが出来ます。そこに昔相思相愛だった女性が突然現れる。その女性はハインリヒが女性に対し積極的でないこともよく知っていたので、自ら積極的に働きかけて妥協点を見出す。それから20年してある不幸なことが起こるが、ハインリヒはその20年を回顧して慰みもあり喜びもあったとしみじみ思う。こういうじんわり感動が身体の末端まで波及するような終わり方は素晴らしいと思いました」
「この小説には他にもハインリヒと相思相愛の2人美しい女性が登場するがどう感じたかな」
「先程も言いましたが、ぼくはハインリヒの優柔不断な態度が嫌いでした。これは小説を読み続けるために致命的なことで、何度ぼくの読書意欲を喪失させたでしょう。アンリとの幼い日の熱愛が成就しなかったのは仕方がなかったとしても、成人してお互いの境遇を知り合っていてしかもふたりを援助する伯爵もいるというのに、ハインリヒはわざとドロテーア・ドルトヘンを避けて旅立ちます。その後ドロテーアの身元が分かり貴族と結婚することになるので、ハインリヒがしたことは正しかったということになりますが、アンナもドロテーアもすんなりと結ばれても読者は納得したと思います。いやそのまま結ばれた方がいらいらしなくて良かったと思います」
「でも、ハインリヒがアンナと結ばれて、別れてしばらくしてドロテーアを知り合いはたまた別れて、中年になって最後の女性と幸せな毎日を送るというより、幼いころに親密になって自然の中で愛情を深めたアンナとのつらい別れがあり、お互いに愛情があるのを知っていながらプラトニックな関係を続けるドロテーアとの恋愛というのも読者を楽しませる。そうだ、恋愛についてはまた後で話すとして、この小説には2つ面白い話が出て来るだろ」
「そうでした、メレットとマイヤーラインの話ですね。この小説の最初のところは幼少の頃によくある話ばかりで退屈だったんですが、第5章メレットの終わり頃に「棺を墓穴の中におろさんとせし時、棺のうちより怪しき叫び漏れ聞こえければ」と出て来たので、眼がしゃんとして小説を読み続けることが出来ました。また、ハインリヒの宿敵、マイヤーラインとのたたかいもユーモラスで楽しく読みました。でも彼は気の毒に足を滑らせ屋根から落ちて亡くなりました。ハインリヒが幼少の頃の話が続き、平和な日々を送っていましたが、思わぬことで濡れ衣を着せられて放校になり、叔父のところで絵の修行を始めることになります。そこで叔父の娘アンナとの幼き日のはかない恋愛となるのですが、このふたりの描写がすばらしいです。自然の中で奔放に振る舞うふたりの姿は幼き日にいいことがなかった、いやずっといいことがなかったぼくには有難い癒しと言えます」
「確かにハインリヒとアンナの幼き日の恋愛の場面はこの小説の白眉といえるだろう。だがハインリヒがもたもたしているうちにアンナは2年間学校で勉強することになり家に戻ってしばらくして病魔に襲われて、若い命を失ってしまう。アンナが亡くなって後にハインリヒは画業で自立しようと頑張るが完全主義者の彼はなかなか満足せず、画家のリースやエリクソンと交流したりするが人間関係がうまく行かず迷い児のようになってしまう。画業をあきらめて実家に帰ろうとするが、その途中で伯爵と巡り合い、伯爵はハインリヒの才能を認めて彼の人生に光が差してくる。しかも彼の養女ドロテーアも彼の絵の才能を認めて熱いまなざしを注いでくれる。しかし彼が引っ込み思案なためにドロテーアとも結ばれなかった。こういうふうにして小説全体を見ると君も気付くことがあるだろう」
「そうですね、さっき先生が言われたようにアンナとの幼い恋が成就していたらドロテーアとの恋愛はなかったでしょうし、ドロテーアと相思相愛が高まって結婚に発展していたらそこで小説は終わったでしょう。教養小説と言うのはそういった恋愛をはじめ様々な人間形成の出来事の中で、主人公がどのように考え行動するかを描いていますね」
「そう、それだから、作者が主人公を愛すれば愛するほどいろんな苦難を経験させ、いつまでも小説が終わらないことになる。ケラーも君のような読者がいらいらすることも気にしない」
「でも、ぼくはアンナとうまくいって、15才かそこらの男女の結婚というのも新鮮で良かったのかなと思います。長くなると登場人物の人間関係がややこしくなりますし」
「それがあるからアンナは17才かそこらで若くして亡くなり、ドロテーアは貴族と結婚した。第3の恋愛で三角関係が起きないように。そのあたりもケラーはよく考えている。だから『緑のハインリヒ』は老いも若きも安心して読める人間形成を描いた小説と言える」
「まさに一点の曇りもない真の教養小説なんですね」