プチ小説「こんにちは、ディケンズ先生54」

小川は以前毎週土曜日の朝に利用していた喫茶店を再び利用するようになったが、2つの点で違うことがあった。
ひとつは以前は土曜日の朝7時に入店し2、3時間の間利用していたが、平日の朝6時から7時前までの利用時間に
変わったこと。もうひとつはレモンティーかミルクティーを頼むことにしていたのが、モーニングセットを頼むことに
変わったことだった。小川は仕事柄活字に接する機会が多く、短時間に多くを読むことを要求されたため、読書の早さは
以前に比べると少しは改善されていた。それでもディケンズの小説に関してはじっくり味わいながら読むことが習慣と
なっているため、それほどはかどらなかった。2週間かかって「エドウィン・ドルードの謎」を読み終えた時、小川は
独り言を言った。
<それにしても、未完の推理小説を読むんだからと思って、じっくり読ませてもらったけれど、前にディケンズ先生が
 言われていたように、殺人事件が起きたかもしれないというだけだし、登場人物の描き方も不十分な気がする。それに
 何より決して楽しい話や恋愛話ではなさそうだし、サブストーリーとしても今のところ男女の楽しい会話もない。
 ディケンズ先生は、「ピィクウィック・クラブ」「オリヴァー・トゥイスト」「クリスマス・キャロル」「ディヴィッド
 ・コパフィールド」「リトル・ドリット」などのわくわくさせる楽しい小説を書く一方、「骨董屋」「二都物語」の
 ような陰鬱で暗い気持ちになってしまう小説も残している。果たして、この小説を書こうとした動機は何だったのだろう。
 もしかして、社会派作家として...>
小川はそう言って、最初のチャプターをもう一度読んでいたが、時計を見ると午前7時を回っていたのですぐに会社に向かった。

小川がいつものように午後10時に帰宅すると、玄関で秋子が迎えた。
「子供たちはもう寝ただろう。少し話があるんだ」
「わたしも、それじゃー今日は和室で食べるわね」
小川と秋子は家族揃って食事をする時はダイニングのテーブルで取ったが、重大事項や重要事項を検討する時には和室に卓子
(卓袱台)を置き、向かい合って話をすることになっていた。最初に購入した卓袱台は、小川がふざけて勢いよくひっくり返した
ため壊してしまった。そのため別の卓子が必要になったが、今では卓袱台を入手することが困難になっていたので、小川が下宿に
いた時に購入した炬燵がその代用をしていた。秋子が夕食の支度を済ませると小川は話し始めた。
「秋子さん、と言えるのもこうしてふたりでいる時だけだね。もうふたりの子供からもそう言われる、おとうさんとおかあさん
 なんだから。僕の方は、仕事も順調だし昔のように読書する時間も確保できた。そのうちに月1回位は神田の古書街や
 名曲喫茶にも行ってみようかなと思っている。もちろん秋子さんも一緒に来てほしいけど、秋子さんもこの10年我慢して
 いてくれたことがあるだろう。始めたいと思うのなら僕は応援したいと思うけど」
「まあ、うれしいわ。私もそのことで話したかったの。実はここ8年アユミさんのご主人は東京に戻っておられたけど、また
 九州に転勤されるの。今度はいつ戻れるかわからないので単身赴任はしないと言われているわ。それでアユミさんも付いて行く
 わけだけど、小川さんが認めてくれるのなら、アユミさんとのセッション、練習を続けるために(実はたまに二人で音楽は
 していたのよ)、私たちの家を提供したいと思うの。小川さんが了解してくれるのなら、ピアノを私たちに寄贈すると言って
 るわ。子供たちにも音楽を習って欲しいし、一石二鳥だと思わない。アユミさんは月に1回やって来て3日程泊まらせて
 もらえたら感謝すると言っているわ。すばらしい話だと思わない」
「うーむ、そうか、これがアユミさんから目が離せなくなるということなのか...」