プチ小説「こんにちは、N先生 67」

私は中学2年の頃にチャールズ・ブロンソン(「うーん、まんだむ」の鼻髭のおじさんです)主演の「シンジケート」やアラン・ドロン(ダリダと録音した「甘い囁き」大好きです)主演の「スコルピオ」の2本を立て続けに弟と一緒に大阪の映画館(ロードショー)で見て以来、何度か大阪の映画館でアクション映画を見ました。中学の同級生と「燃えよドラゴン」「ダーティハリー2」「007黄金銃を持つ男」を見た後、弟とスティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが共演した「パピヨン」を高校1年の時に見ましたが、それ以降は弟と映画を見に行くことはありませんでした。というのはこの映画の中で脱走に失敗した収監者がギロチン刑に遭うところが生々しくて、マックイーンがヤシの実で作った浮きで脱出するところで感動できずに終わってしまった、というかそのあとのシーンが何も残らなかったからです。また高校1年生の頃に話題になった「〇クソシスト」も同じ高校の同級生が映画を見ていて心臓麻痺で亡くなったと新聞に出ていて、そのころホラー映画という言い方でなかったかもしれませんが、恐ろしい映画がうける時代になったのかと思ったものでした。その後、「〇ーメン」、「〇イリアン」が上映されてそれらはとても人気がありました。特に宇宙、SFものは残酷なシーンが挿入しやすいからか、油断しているとそういうシーン見てしまうことになりました。私はどちらかというと怖がりでそういったシーンをリアルに描くのが作品に箔を付けると考えなかったのでホラー映画が闊歩し出したころから、SFや残酷シーンある映画は見なくなりました。いえ、そうではなくて映画全般に対して中学生の頃までのような興味がなくなり、冷めてしまったのでした。大阪梅田の阪急メンズの建物の前の歩道にはかつてあったOS劇場(ここで「パピヨン」が上映されたのでした)で上映された映画のレリーフタイルがありますが、私はここを通るたびに「パピヨン」を思い出して複雑な気持ちになるのです。私はバックハウスのアナログレコードがほしくなって大阪のディスクユニオンに行くため阪急梅田で下車した後、久しぶりにOS劇場があった通りを歩きました。「パピヨン」のタイルを探していると、N先生が私に声を掛けられました。
「ぼくも青年の頃は映画が娯楽の王様だったから映画はよく見たよ」
「どんな映画を見られたのですか」
「やっぱりミュージカルでない音楽ものかな。印象に残っているのは「グレン・ミラー物語」「ベニーグッドマン物語」「五つの銅貨」「愛情物語」、そしてかなり古くなるが「未完成交響楽」とかかな」
「今日は映画のことを話されるためにここに来られたのですか」
「いいや、君がヘッセの『デミアン』を読み終えたからだよ」
「そうですか、でも、ぼくはこの小説の内容を充分理解できたと思いませんし...『郷愁(ペーター・カーメンチント)』『車輪の下』『春の嵐』のような主人公の成長、心の動きを描いたものとは違うような気がするのです。それにこの小説はビルドゥングスロマンのカテゴリーに入るようですが、主人公の性格が悪すぎます。シンクレールは不良です」
「人格形成でないと言うと、じゃあ、何を描いていると君は思うのかな」
「神秘的なもの、科学では実証が難しいものと言ったらいいのでしょうか。最初のところでシンクレールが同級生のフランツ・クローマーから恐喝されているのをマックス・デミアンが気付き彼を助けて(デミアンが「シンクレールに危害を加えるな」と言ったのか、クローマーがシンクレールを脅すことが一切なくなる)、その後二人の友情が続くと思ったのです。ところがそのようなことはなくシンクレールは上の学校に進学して、デミアンとは別れます。そうして自由になったシンクレールは18才だというのに、酒、タバコ、女に溺れて行きます」
「そこでまたデミアンが登場して主人公の軌道修正をするのかな」
「いいえ、そこでデミアンが再登場して問題を解決とはならずに、シンクレールは近くの公園でたまたま見掛けたベアトリーチェ(容貌がダンテ『神曲』の絵画のベアトリーチェに似ていると思い、シンクレールが勝手に名付けた)を見て反省し自分の生活を改め普通の大学生に戻って行きます。ここで気になるのは、ベアトリーチェの容貌を描くあたりから、祈禱者、礼拝、祭壇、神聖、精霊などの言葉が出て来ることです。シンクレールはその後デミアンと再会し苦しんだことを告白しますが、デミアンは「問題解決のためにはアプラクサス」と説明してまたすぐに姿を消します」
「アプラクサスというとエジプト神話の神で、キリスト教の対抗勢力だった」
「このアプラクサスのことを掘り下げてシンクレールに伝授したのはオルガン奏者で音楽家(かつて神学者で牧師になろうとしたことがあるとシンクレールに言っている)ピストーリウスで彼は自分独自の見解を長々とシンクレールに伝え、シンクレールはピストーリウス独自の宗教観に染められて行きます。ここでふたりは気軽に異教の話だけでなく、思想、哲学の話をしますが、ピストーリウスの考え方はとても独善的で危なっかしい気がします」
「その後シンクレールは大学に行くんだね」
「大学に入学してからは、シンクレールはデミアンの母親と親しくなったり、大戦が起こって戦場でデミアンと会いますが、このあたりは脈絡がなくて丁寧に描かれているという気がしません。第7章以降は未完成な作品としか思えません。デミアンの死によって物語が終わりますが、後味の悪いものとなっています。ビルドゥングスロマンであるなら、デミアンの伝えた言葉でシンクレールが成長するとなると思うのですが、そのようなことはなく、苦しくなったら呼んでと告げてデミアンは姿を消します。このデミアンの最後の(別れる時の)発言はとても変な気がします。呼ぶとやがてシンクレールの心の中に何かが現れる(聞こえる)のでしょうか。ヘッセの小説は今から40年前に『郷愁』『車輪の下』『春の嵐』を読み今年『郷愁』の別訳を読んだだけなのでヘッセの思想について詳しく語ることは出来ませんが、この小説を読むとヘッセが科学でも、宗教でも説明できない神秘的なもののことを書いて読者の興味を起こさせようとしたのだと思いますが、この小説に出て来るいろんな言葉に羽が生えて、生嚙りで興味本位の宗教初心者に興味を持たせるのではないかと危惧します。宗教に、特に異教に興味がある人にはアプラクサスなど興味深い単語がてんこ盛りで、それを調べて無駄な時間を過ごすだけでなく、深みにはまって身動きが取れなくなってしまう恐れがある小説であるような気がします」
「生兵法は大怪我の基かな」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずといいますが、そうではなくてそっちの方が正しいと思います。聞きかじったことを吹聴して逆に深みにはまらないようにしないといけないと思います。「〇ーメン」の主人公がダミアンだから関係があるのかなとホラー映画のファンの方がこの小説を読み始めて深みにはまると、大変なことになると思います」