プチ小説「こんにちは、N先生 69」
私は10月8日の午後7時のニュースでフォークシンガーの谷村新司さんが亡くなったことを知ったのですが、それを聞いて中学、高校時代は深夜放送にのめり込み、フォークソングの歌詞ばかり覚えて勉強をしなかったことを思い出しました。またフォークシンガーが歌うラブソングを聞いて、可愛い同学年の女の子と親しくなれたらと思って報われない意思表示を何回かしたことをほろ苦い気持ちで思い出しました。私が深夜放送を聴き始めた頃は、アルバート・ハモンドのカリフォルニアの青い空がリクエスト番組(ABCヤングリクエスト)でかかっていたので1972年の夏だと思うのですが、レコードを買って繰り返し聞いたレコードは、フォークソングのかぐや姫と風でした。中学2年生の時、小学生の頃からの友人に「かぐや姫LIVE」というレコードを借してもらって気に入った私は、小遣いを溜めてはいくつかのレコードを購入しました。アリスは高校生になってから、たまたま写真部の文化祭の出品の三面スライドのBGMで流れていた「走馬灯」という曲が好きになり、「遠くで汽笛を聞きながら」がヒットするとアルバムALICE Ⅴを購入しました。他にもチューリップや関西フォークのナターシャセブンのレコードも購入しました。彼らが作詞作曲した甘くせつない青春の唄は、将来のことは何も定まらないが夢だけはある私のささやかでちっぽけな恋心に火を点けたのでした。一向に恋が報われることはなかったのですが、恋心を歌う歌は私の心の底に積もって行きました。私が最も憧れて夢中になった曲は、かぐや姫の「神田川」ですが、「僕の胸でおやすみ」「星降る夜」なんかも好きでした。風は、「海岸通り」「お前だけが」「あの唄はもう唄わないのですか」「忘れゆく歴史」「君と歩いた青春」は繰り返し何度も何度も聞きました。チューリップの「心の旅」「銀の指輪」「サボテンの花」、ナターシャセブンの「春を待つ少女」「谷間の虹」「街」も大好きでした。こうした青春の唄にのめり込み、深夜放送を聞くためにほとんど寝ていないという生活が取り返しのつかないことになるとわかって改心したのは、20才になっても進路が決まらず恥ずかしくて成人式にも行けない自分の現状を情けなく思ってからでした。それから有名予備校の試験を受けて合格し1年頑張って立命館大学法学部に入学することが出来たのですが、予備校に入ってからは勉強の妨げになるとフォークソングの代わりに勉強のBGMになるクラシック音楽だけを聞くようになったのでした。それから30才の頃にジャズを聞き出すまでは、クラシック音楽以外は聞きませんでした。それでも30代になると幅広く音楽を鑑賞するようになり、フォークソング、クラシック音楽、ジャズの他、ブルーグラス、カントリー、ボサノヴァ、フォルクローレなども聞くようになりました。それからフォークソングにのめり込む前の昭和歌謡もよく聞くようになりました。2年前に風の大久保一久さんが亡くなって、今月8日に谷村新司さんが亡くなり、フォークシンガーの訃報は今後も私の青春時代に数限りない感動と楽しみを与えてくれた時のことを思い出させてくれると思いますが、懐かしい半面、もう少し早く気付いて真面目に勉強するかのめり込む一歩手前で我慢できなかったのかと後悔することもあるのです。そんなことを考えながら河原町三条辺りを歩いていると、N先生が私の後ろから声を掛けられました。
「ぼくが立命館大学でドイツ語を教えていた頃はここに三省堂という本屋さんがあった。ぼくも三省堂で洋書を立ち読みしたものだった。君もよく来たんだろ」
「そうですね。でも40年前のことですからね。何を買ったかよく覚えていないんです。確か新潮文庫の外国文学を買ったように記憶しています」
「モームとディケンズを一通り読んで、アメリカ文学が好きになれないから、ヘッセを読んでみようと思ったんじゃなかったかな」
「そうです、思い出しました。『郷愁』の中の詩に惹かれて、『車輪の下』『春の嵐』『知と愛』を読みました。ヘッセはそれで読まなくなったのですが、半年前に『シッダールタ』を読み、この前に『青春を美わし』を読み終えて、今、『メルヒェン』を読んでいるのですが、この3冊をもう少し早く読んでいたら良かったと思うのです」
「『車輪の下』『春の嵐』『知と愛』はどちらかというと気分が落ち込んでしまう小説だから、あまりお勧めできない。でも『青春は美わし』は面白かっただろ」
「そうですね、『青春は美わし』という文庫本には、『青春は美わし』と『ラテン語学校生』という2つの中編小説が収められています。どちらも身につまされる小説です」
「ほう、どんなところがかな」
「『青春は美わし』ではヘレーネとアンナに、『ラテン語学校生』ではティーネに、高校生くらいの若い主人公が恋心を持つのですが、アンナとティーネはまだ将来のことが定まらない若い時分の恋愛は長続きしないし、そのことは将来に支障を来たすと考えているようで、はっきりと高校生の男の子に今はお友達としておつき合いしましょうと表明しています。アンナは、「私もあなたと同じようなんですの。ある人を愛しているんですけれど、その人を自分のものにすることができませんの。友情やその他自分の手に入れうる良いものや楽しいものをすべて二倍もしっかりつかまえていなければならないんじゃないでしょうか。ですから、私たちはいつまでもよいお友だちでいよう。少なくともこの最後の日はお互いに愉快な顔を見せ合おうって、申してますの。いいでしょう」と言いますし、ティーネは、「かわいい少年をとがめる気になれなかった。それに、あんな上品な、教育のある、その上汚れに染んでいない少年に恋されているという自覚は、彼女にとって新しい甘美な気持であった。しかし恋愛関係なんか一瞬たりとも考えはしなかった。そんなものはめんどうなことばかりか損害をもたらすのがおちで、、どっちみち、確実な目標に達することなんかあり得なかった」と考えます。もちろん、これを考えたのはヘッセで、ふたりの女性の口を借りて、若年の一時の熱い情熱に乗って女性から愛を奪い取ろうとする危険性を仄めかしています。これからもっといいことがあるから時期がやって来るのを待っていなさいと」
「でも恋愛と言うものは極めて不確実なもので、今、我慢したら、確実に将来いいことがあるという保証はない。『ラテン語学校生』のティーネもいい人を見つけたと大工の職人と親密になるが、その男性も仕事中に高所から転落し意識を失う。ティーネはその男性に付き添いある程度回復するが、見通しは明るくない。それでもティーネは恋人の面倒を一生見ると言っている。いつ結婚してもリスクはあると考えると、若い時に思い切って大恋愛という考えも無茶かもしれないがそれもありかなとなってくる。でも何より大切なのはお互いの気持ちだと思う。好きな人通しなら、若くても中年に差し掛かっていても難しい場面もお互いが協力して切り抜けられるんじゃないかと思う」
「そうですね、先生が仰る通りだと思います。でも人生は長いですから、20代後半くらいに結婚して子供を作り育てていくのが理想というのは今でも、どの時代でも変わらないと思います。これはそれが出来なかった人の負け惜しみですが」