プチ小説「こんにちは、N先生 74」
私は以前痛風になった原因は外食のラーメンと決めつけて外食のラーメンは食べないと宣言したのですが、彦根で野菜チャンポンを食べしばらくして京都の祇園で天下一品のこってりラーメンを食べてとても美味しかったのでそのあとは前言を翻してずるずるとまたラーメンを食べるようになったのでした。痛風発作が42日間続いたり、左膝が10センチほど腫れあがったことはきれいに忘れて、天下一品、天天有、伝丸、古潭のラーメンを食べるようになってしまいました。特に天天有の定番ラーメンと餃子はクラリネットのレッスンを受けているJEUGIAミュージックサロン四条から5分ほどのところにあり、月に1、2回行くようになってしまいました。定番ラーメンのこってりスープを半分ほど飲んで、餃子は豆板醤をたっぷり塗って食べるのですから身体にいいわけないと思うのですが止められません。前のように激痛が42日間続かないと止められないのかなと思っていたところ、最近、夜1時間の腿上げをすると寝付く前に左膝がそのままでは眠れないほど痛くなったり(湿布薬を張ると10分程で痛みはなくなります)、朝起きた時は全身が筋肉痛で立ち上がりにくくなりました。またコロナ禍の後筋力が落ちてしかも免疫力も落ちているみたいで、中耳炎、激痛を伴うぎっくり腰、粉瘤、歯肉炎にも罹患して自分の体力の衰えをひしひしと感じるのです。そんなこともあって外食ラーメンはしばらくやめよう(ただし年1回か2回のラーメンたろうはOKとします)と思いましたが、その代わりに自宅でチ〇ンラーメンを食べて節約しようということにはなりませんでした。やはりクラリネットのレッスンで家に帰るのが遅くなった時は外で食べて帰りたいのです。それでそれに代わる店として、高槻阪急のポムの樹に行くことにしました。定番オムライスと創作オムライスの店ですが、入口のところで食品サンプルを見ていると、やっぱりぼくはソースはケチャップだけがいいなという声が聞こえました。
「ああ、N先生、先生もオムライスがお好きなんですか」
「いや、ぼくは君がさっき大学図書館で松本清張著『塗られた本』を読み終えたと聞いたからここに来たのさ」
N先生と私は店内に入り、メニューを見て注文しました。
「やはり君も定番オムライスだね。君はラーメンで健康を害したと言っているが、大盛を注文するから体重が増えて身体を悪くするんだ。君に一番必要なのはダイエットじゃないのかな」
私はなぜN先生が私がラーメンをやめようとしていることを知っているのか不思議に思いましたが、何も言いませんでした。
「でもここのオムライスは特にタマゴが美味しいね。この次はトマトソース、デミグラスソース、チーズなんかも食べてみたいなあ。でもLサイズ(タマゴ6個、ご飯お茶碗5.5杯)を食べようなんて決して思わないよ」
「ウスターソースを頼んだら、タバスコしかないと言われました。でも美味しいからまた来ようと思います」
「魔が差して、Lサイズを注文しないように。一度頼んだらそうしないと物足りなくなる。そこを堪えられるかどうかが人生の分岐点だ」
「???」
「ところで、『塗られた本」は面白かったかい」
「面白くて読みやすくて、360ページあるのに2日で読んでしまいました」
「他にも捗った理由があるんだろう」
「そうですね、他の理由としてはとにかく会話文が多い。登場人物が際立っている。ヒロインに性的魅力があるでしょうか」
「確か君は性的魅力がある女性が出て来る、芸術作品が大好きなんだね」
「嫌いな男性はいないと思いますよ。それは先に進みたいと言う意欲を掻き立ててくれます」
「でも大概はヒロインがピンチを逃れて終わりといものだ」
「そりゃあ、ヒロインが悲惨な目に遭ってしまってはそこから復讐劇になったりしましから、最後までヒロインがうなぎのように逃げおおせるのが安心して読めます」
「ヒロイン紺野美也子以外にも興味深い人物が多いね」
「売れっ子作家で好色家の青沼禎二郎、詩人で純粋な紺野卓一、21才の新進女優で卓一が好きな野見山房子、美也子のパトロンで愛人関係の銀行頭取井村重久。ヒロインを含めた5人が個性豊かにこの小説の中で動き回ります。とにかく退屈しない。青沼の美也子への魔の手も、美也子の卓一への愛情も、60才近い井村への美也子の愛も、野見山房子から卓一への同情もどれも実感がこもっていています。ある人物が自殺して悲劇が終わるのですが、紺野夫妻という不思議な夫婦、売れっ子作家のいろんなことを披露してくれる青沼、少しひねくれたところがあるが純粋で正義感がある野見山房子、もう少しで定年となり充実した人生となるはずだったが目前で転落してしまう井村とよくこれだけ面白いことを盛り込めるなあと感心しました」
「ぼくは詩を書くのが好きだけど生活的に全くの無能力者(これは自ら認めていることだが)の紺野卓一の牧歌的なところが好きなんだが、他の登場人物がせかせか動きすぎてる気がする。美也子は夫の詩を世間に知ってもらうために出版社を大きくしようと奮闘していてしかも井村との愛人関係を続けている。青沼は原稿を書くので忙しい忙しいと言っている。野見山房子は演劇の練習も忙しいが生活費を効率的に稼がないといけないのでバーの仕事をしている。井村は頭取の仕事で忙しいのに、美也子との付き合いに忙しく神戸に泊りがけの旅行(会社には社用のついでと言っている)をしている。60才になってよくやるなあと思うくらい」
「そうしてそこで美也子と井村が交通事故に遭って一見堅実にやっているように見えた美也子の築いてきたものがぐらぐら音を立てて崩れ始めるのです」
「そうしてさっき言った悲劇に繋がって行くのだが、美也子、卓一、房子の言葉のやりとりが切実で心を動かす」
「そうです、そういう緊迫感があって、登場人物が際立って見えるので次の展開が気になるのです。半分辺りからこれを明日まで我慢するのはもったいないと思って最後まで読んでしまいました。最後のところの青沼への厳罰で溜飲が下がる読者が大勢おられると思います。でも美也子から「わたくし、先生を十日ばかり旅館にカンヅメにして差し上げたいわ。そして、先生が徹夜で書いてらしても、わたくし、お傍に付きっきりでサービスいたしますわ」という発言に鼻の下を伸ばした青沼が悪いのですが、井村には開けっぴろげなのに対して青沼に対しては硬く閉ざしているという感じです。これは夫の卓一に対してもそうです。美也子はもともと水商売をしていてしばらくして井村の愛人になったので、順番から言うと井村の方が先なのです。それから卓一の「あっと思っている間に熊笹の蔽い茂っている中に跳ねるように飛び込んで行った。何がはじまったのかと美也子が茫然となって立っていると、そのへんの樹の一つに彼はいきなり抱きつき激しくゆさぶりはじめた」といった行動は美也子に対して性的な欲求不満を持っているように思えます。美也子のパトロンは大事にしないといけないと言われて、性的なことは一切拒絶されている感じです。卓一が美也子に養われているからと房子に漏らすのを聞いて、房子は美也子に嫌悪感を持ちますが、美也子のピンチを救った上に自分に言い寄って来た青沼に厳罰を与えるのですから青沼はそんなに悪い人なのと訊いてみたくなります。青沼が鼻の下を伸ばしたのは美也子、房子にも多少は誘惑したところがあるのですから。交通事故で井村は大怪我をして仕事が出来なくなりますが、事故現場から美也子は逃れて今までと同じ生活を続けます。あまりに美也子に不幸が降りかからないというのは不自然な気がします。最後のところで卓一の詩集が発刊されて評価されているシーンがありますが、これも美也子の喜ぶ顔が浮かびます。でも卓一が本当にして欲しかったのは詩集の出版じゃなくて普通の夫婦生活じゃなかったのかなと美也子に言ってやりたい気がしました」
「まあ、君にそれだけ考えさせる美也子というのは際立った性格のミステリーにふさわしいヒロインと言えるんじゃないのか」
「確かにその通りだと思います」