プチ小説「こんにちは、N先生 75」
私は毎年12月にLPレコードコンサートで東京に出掛けた時に浅草の紀文堂で人形焼きを購入して弟や妹に発送してもらうのですが、いつものように白あん黒あん5個ずつの包装の人形焼きをいくつか購入して発送の手続きをしていると、ぼくは白あんの方が好きだなという声が横でしました。それは、N先生でした。
「先生も甘党なんですか」
「もちろん、そうさ。最近では君が毎年絹巻きと生姜煎餅を購入する上七軒の田中實盛堂で寺町仏光寺の仙太郎のもなかが美味しいと聞いたから、先週買って帰っていただいたんだ」
私はN先生が私と同じことをされたので、どうしてそうなったのか不思議でしたが、何も言いませんでした。
「ところで君は昨日松本清張著『二重葉脈』を読み終えたようだが、面白かったかい」
「解説に書かれているように「犯罪動機の社会性に注目しながら、推理小説の持つ意外性の面白さを発揮した社会派推理小説」であると思いますが、内容のことについて私の意見を言う前に「葉脈」について関係のない話をしたいのですが」
「いいよ。好きにしたら」
「それでは、私は高校生の時に写真部に所属していたのですが、暗室で作業しない時は生物室でナポレオンやセブンブリッジをしていました。生物部の部員と上手くやっていましたが、ひとつだけ何とかならないかと思っていたことがありました」
「活発ではっきり発言する体育会の部員と違って、生物部員は穏やかな人ばかりのような気がするが、違うのかな」
「部員は大人しい人ばかりでしたが、新入生にしおりを渡すのだと言って葉脈標本を作る時の臭いが強烈で今でもその時のことを思い出すのです」
「葉脈標本はどうやって作るのかな」
「広葉樹の葉っぱを沸騰させた水酸化ナトリウム溶液で20分ばかり煮ると緑の部分が溶けて葉脈だけが残るのです。それに着色して「新入生歓迎 生物部」と書かれた紙を一緒に小さなビニール袋に入れて新入生などに渡すのです。それば可愛らしい贈り物ですが、作成するときに発する臭いは頭にこびりつくような化学薬品を濃縮したような強烈な臭いでした」
「きっと、その臭いを嗅ぐと生物部やナポレオンを一緒にした部員の顔が思い浮かぶのだろうが、一般の人には水酸化ナトリウムの臭いを嗅ぐことはないだろう」
「苛性ソーダとも言われていて用途はたくさんあるようですが、一般の人が使うことはまずないでしょう。生物部員も葉脈を溶かすためにだけ使ったのでしょう。まあ、とにかく一度嗅いだら忘れられない強烈な臭いです」
「ところで『二重葉脈』はどうだった」
「最初にタイトルについてですが、作者の意図としてはこの小説が重層構造であることを認識してもらいたかったというのがあると思います」
「いくつかの殺人事件があって、それをひとりでやったというのではないということかな」
「そうです。4つの殺人事件があるのですが、最初の3つの殺人は複数の人が絡んでいるのです」
「最初は、イコマ電器が倒産して同社の債権者集会の場面から始まり、やがて社長、専務、常務が倒産を予想して粉飾決済をして会社のお金を着服したのではないかという疑惑のうわさが流れる。儲けたお金の一部を下請け業者の債務返済のために使えば問題は起こらなかったのだが、明らかに生駒社長等が着服していてしかも法律(会社更生法)は会社のためのもので下請け業者には冷たいものだった。こういった状況の中で生駒社長が貯えた不正なお金を保全するために犯罪を企図するのだが、生駒が計画した犯罪は単独犯行ではなく、ひとつは3人での犯行で、もうひとつは生駒とある女性が依頼した男性の犯行となっている」
「そうして第1、第2の殺人事件で生駒と共謀した2人が共謀して生駒をピストルで殺害し、最後は残りの2人のうちの1人がピストルでの自殺を偽装してもう一人を殺害するということになっていますが、専務、常務の殺害と後のふたつの殺人とでは首謀者が違うので4つの殺人にはふたつの葉脈、つまり二重葉脈があったと言えるのです。そういった複雑な構造で、しかもとても悪い人の生駒が後150ページを残したところでいなくなります。物語の最初のところのように生駒は考えがあって姿を消したのではなく、後ろからピストルで撃たれて死亡するのです。ここで憎まれ役がいなくなったので推進力が落ちた気がします」
「君が言うのは読み進める推進力のことだと思うが、さらに3人の殺害をした実行犯が殺されて一体誰が犯人なのと言いたくなる」
「神野と塚田の両刑事が奮闘して事件を解明しようとしますが、3人の役員が殺されて粉飾決済など会社にかかわる不正は闇の中のまま、3人を殺した実行犯は殺されます。ここで真犯人は謎のままかと思っていると、ある偶然から真犯人が明らかになります。でもその真犯人は刑事が感づいたと思い自殺します」
「この犯人に犯罪の片棒を担がせたのは生駒なので、生駒の死は自業自得と言えるだろう。でも生駒の犯罪に引き込まれた女性は不運だったと言える」
「犯人探しだけでなく、そうさせた社会(この小説の場合は大会社とそれを取り巻く下請け企業)の状況で関係する人がそれぞれどのように反応して行動するかを描いています。考えさせられることもいろいろあり、読み応えのある小説でした」
「そうだね。ところで、君。この「こんにちは、N先生」も今回で75話だ。「こんにちは、ディケンズ先生」も75話になったところで出版を考えたんだから、「こんにちは、N先生」も出版を検討してくれないかな」
「出版するためにはいくつかのことをクリアーしないといけません。まずは出版社が出版したいという願いを聞いてくれるかです。出版社の同意が取れても出版費用が250万円くらいかかりますし、校正の作業も必要です。それから最も難しいと考えるのが、N先生のモデルとなった大学時代にドイツ語を教えてくださったNe先生の了解です」
「そうか、でも出版社が企画出版にしてくれたら、費用は出版社負担だから250万円のことは考えなくてよい。そうなることを祈っているよ」