プチ小説「こんにちは、N先生 80」

私はジーンズは作業着で遊びの時だけ、学生でも授業の時はジーンズは穿かないでスラックスを穿くという考えを社会人になるまで持っていました。それでジーンズを初めて穿いたのは社会人になって3年目の時でした。最初の頃は神戸のジーンズショップで2年に1着くらい購入していたのですが、43才になって地元の商店街に品数が豊富で店主がすぐに裾上げをしてくれるジーンズショップ(Peppersという店で昨年12月10日で閉店になりました)があることを知り、頻繁に通うようになったのでした。その頃丁度槍・穂高登山のため熱心に筋トレをいていて、最初は腹回り32のジーンズを購入したのですが、筋トレの効果が顕著に表れて、31、30、29と細くなり、3ヶ月ほどで28のジーンズが穿けるようになりました。80キロ近くあった体重も70キロ近くにまで減っていました。51才になって槍・穂高登山をやめるまでは体重は75キロ程で28のサイズの黒のジーンズを穿き続けていたのですが、その後『こんにちは、ディケンズ先生』を出版すると月に1回は行っていた比良山系の登山をほとんどしなくなり5年程前に武奈ヶ岳に登ってからは比良に行くことはなくなりました。特に2015年の引っ越しは体重増加に貢献しました。。母親の介護のために実家の隣に引っ越したのですが、引っ越しの準備を始める2月頃から日に1時間~2時間していた筋トレをしなくなりみるみる体重が増えて、4月の引っ越しを終えて気が付くと80キロを軽く超えていました。拙著を出版したのは2011年9月でしたが、その頃は体重が75キロほどで筋肉質だったので、ディケンズの『荒涼館』の登場人物でぽっちゃりした体型のフローラ・フィンチングを茶化したものでしたが、現在はその頃茶化したフローラよりひどい肥満体に私はなってしまいました。実際、1月24日に体重を測ったところ、91.2キロ(服はジャケットも着たまま、革靴も履いたままで体重計に乗り、1キロだけ服の重量として引かれました)あり、前週に自宅で体重を測った時は88.7キロだったのにと思ったものでした。昨年8月2日にコロナに罹り、11月18日には頭頂部の粉瘤の手術をして充分な筋トレができなかったり、高血圧や痛風の治療薬の副作用に苦しめられ(勤務していた病院でずっと薬を処方してもらっていて副作用はなかったのです)、昨年は一生で一番体調が悪かった年でしたが、今年は体調を持ち直すようにして、2011年に拙著を出版した時のようにいろんなことに積極的に真摯に取り組んでみようと考えています。そのようなことを考えて、四条烏丸の駅ビル(COCON 烏丸)地下一階の中料理店オールドホンコンレストラン京都(老香港酒家京都)でバイキングを食べようか迷っていると、後ろで声がしました。
「ココハナニガウマインヤ」
「ああ、N先生、4,500円もするバイキングですから、もちろん初めてです。飲茶バイキングですから、小籠包や餃子がメインではないでしょうか。それにここは2人からしか入られないようですから今は無理ですね」
「何を言っているんだ、ぼくと一緒に入ればいいじゃないか」
私は、それもそうですねと受け流しました。
「君がしばしばこの近くのラーメン屋天天有で定番ラーメンのラーメンの中盛りと餃子2人前を食べるから、いつかこの店に入るだろうと思っていたんだ」
私は、なぜ先生がそんなことを知っているのですかと言いそうになりましたが、我慢しました。
「でも先生、確かにこのお店は外観が凝っていてそそりますが、ぼくは貧乏ですから飲茶バイキング4,500円というのを頼むのが精一杯ですし、一緒に食べてくれる人もいないんです」
「バイキングが無理だったら、ふかひれスープ(16,800円)、北京ダック(12,800円)、活け蟹料理(8,800円)、伊勢海老料理(13,800円)なんかを遠慮せずに食べたらいいんだよ」
「そ、それは一品で1万円はします。10日絶食しても食べられません」
「まあ、冗談はそれくらいにして、君は昨日松本清張の『火の路』を読み終えたようだが」
「上下巻合わせて950ページ以上の大著でした。松本清張の小説は読みやすいので上下巻であっても3日くらいで読み終えるのですが、この小説は4日かかりました。著者がゾロアスター教(祆教)の日本伝来について、ヒロインの口を借りて述べるところは同じことの繰り返しが多くてちょっと退屈でした。ササン朝ペルシアの頃に隆盛だった拝火教が唐の時代、日本では飛鳥時代に日本に伝来して痕跡を残した。酒船石、益田岩船、それに猿石や亀石はその証拠である。斉明天皇はその普及に熱心だったとの説を実証するために、ヒロインの高須通子が松本清張の代わりに昔ササン朝ペルシアが栄えたイランのあちこちを旅します。イラン人の通訳シミンを連れて、沈黙の塔を訪れるだけでなく、ゾロアスター教の司祭に拝火行事を営んでもらったり鳥葬について調べます。そうして帰国して調査結果を専門雑誌『史脈』に発表します」
「『史脈』への寄稿は2度目になるんだが、最初の寄稿の前にある事件が起こって手紙のやり取りをするようになった海津信六から今まで考えたこともなかった古代史についての見解を聞き、それまでの上司(久保教授や板垣助教授)の顔を伺いながら研究するのをやめて自分の心が命ずるままに探究を始め続けていく。その最初の成果が最初の寄稿だ」
「そうしてイラン行きを決意して、1ヶ月にわたるイランでの調査を終えて、教授たちから疎まれるのを覚悟で2度目の寄稿をします」
「先程出て来た海津という人物は昔、通子が働いている大学の研究室で若い頃久保教授と一緒に研究していた。しかしポストの数が問題だったのか、海津の実力がなかったのか、犯罪に手を染めてしまったからか、理由がはっきりしないが大学を去っている」
「久保教授と同じ大学出身で美術館館長の佐田によると海津が大学を去ったのは女性問題だと言っています」
「不倫の結果、生まれた俱子は海津の姪として良好な関係を保っていたが、自分の生い立ちについて気付き俱子は瀬戸内海に身を投げて自殺してしまう」
「海津は投身したと考えられる伊予灘が見えるところで縊死するんですが、そこにはたくさんの獰猛なカラスがいて...」
「鳥葬のような無残な状態で海津は発見されることになる。これはゾロアスター教と通子や海津の世界を繋ぎたかったのだろうが、生々しくて恐ろしい場面だ。お弁当の箸袋の料亭(普茶料理屋)の印刷が事件解決の大きな決め手になったり、ちょっと無理なところがある。風も吹くだろうから、3人分の箸袋が同じ場所に落ちていたというのはどう考えてもおかしい」
「ゾロアスター教の日本伝来についての(高須通子の口を借りての)著者の見解の他、大学の人事、盗掘の実態、カメラマンの劣悪な労働環境、薬物中毒者の犯罪などいろいろ興味深い話が出ていて、とても面白いと思いました。それからこの本を読んでいて興味深かったのは、絶対神アフラ・マズダ、マニ教、ササン朝ペルシアなどの言葉が出て来たことです。受験で世界史を選択したぼくは当時のことを思い出して懐かしかったです」
「そういったところが松本清張の魅力なんだろうね」