プチ小説「こんにちは、N先生 83」

私は4月1日に絶好のチャンスと京都市内の桜の名所を巡って五分咲きの桜の撮影をしたのですが、朝早くから夜まで鼻息荒く奮闘したので精力を使い果たしてしまいました。案の定、風邪を引いてしまい4月3日からは咳が酷くなりました。私は市販の風邪薬とのどの痛みを抑える薬で治そうと思っていましたが思うようにいかず、週明けに近くの病院で咳止めの薬を処方してもらうことにしました。処方箋薬局で薬をもらって昼食を取ろうと駅の方に歩いていると、後ろからN先生の声がしました。
「風邪を引いたんだったら、すぐに受診しないといけないと思うな。いくら懐かしいDVDが手に入ったと言っても、寝食忘れて、いや病院に行くことを忘れて見ると言うのはどうかと思う」
「返す言葉がありません。DVDが見たいので病院に行かずに市販の風邪薬を飲んでいたのですが、治らず長引いてしまいました。土曜日に行けば良かったのですが、最後まで見てしまおうと先週は病院に行けず仕舞いでした」
「でも、のどの痛みが酷かったら、つらくて普通病院に行くだろう。何を見ていたんだい」
「1965年イギリスで制作されたサンダーバードです。私が購入したDVDは全32話と3時間ほどの特典映像が入っています」
「その35時間ほどのDVDを4日間で見たわけだ」
「1話が50分ほどですのでもう少し短いと思いますが、4日間はサンダーバードばかりを見ていました」
「まあ、君は年金生活者のような人だからそういうことが許せるのかもしれないが、しっかり小説を書かないと御隠居と呼ばれることになるよ」
「それは困ります。チャンスがあればいろんな小説を企画出版で書いてみたいですし、駄目ならこれからもできるだけ懸賞小説に応募しようと考えていますから」
「でも君の場合、小説を自費出版したけど、懸賞小説で賞を取っていないから小説家ではない、また雑誌などに原稿を寄稿しているのではないからライターとも言えない。物書きを生業とする前の物書き浪人というのだろうか」
「そうですね、先生を困らせないためにも早いところ受賞しないと駄目ですよね」
「そう思うんだったら、今度からは貴重な時間を小説を書くことに充てるといい。ところで君は最近松本清張さんの小説を読んだようだがどうだった」
「『山峡の章』ですね。この小説はヒロイン朝川昌子(結婚後は堀沢昌子)の喜怒哀楽が克明に描かれ、殺人事件のトリックが興味深いので物語に引き込まれて楽しく読むことができました」
「戦前の官庁に係わる問題が戦後に注目されることを恐れた役所とそれにかかわった業者が濡れ衣を着せてうやむやにしようとした事件なのだが、犯人はわからないようにしておく方がいいだろう」
「でも先生の今のお話しである程度の見当はつきます。濡れ衣を着せられたのはもちろん堀沢ですが、彼は自分の出世のためとは言え、疑いもせずに自分が死ぬかもしれない指示に従ったのでしょうか」
「まあ、そのあたりは死人に口なしだから知りようがない。ただ昌子の妹の伶子を巻き込んで心中に偽装されるとは思わなかっただろう」
「この物語の重要な鍵を握る吉木が途中で少し顔出しをする程度で、昌子に対する夫の横暴、夫の重大事件への関与、それに対する世間からの非難から救えるのは彼なのにと思ったものでしたが、最後80ページを切ったところでようやく吉木が再出現しました」
「そうだね両親が茫然自失状態、夫と妹が無理心中というのだから、昌子の辛い気持ちは明らかだ。その上新聞記者から追い立てられ、なんとか葬儀(現場での荼毘)を済ませても先の見通しが立たない。ただ堀沢が亡くなる前日に東京の料亭にいた誰かと電話で話をしていたという手掛かりを女中から聞いた。そこで情報を得るためにその料亭の女中として働き、ある日事件の首謀者が店に集まるのだが」
「そうですね、昌子は精神的に追いやられていましたが、妹の不名誉を取り除きたいという一心で慣れない接客の仕事をして事件の真相の端緒を捕まえたのでしたが、事件の全貌を整理して疑いを晴らすことは昌子にはできませんでした。そうしてようやく吉木が現れ、謎が明かされて行くのですが、どの交通機関を利用したのか、死亡原因は何だったのかなどの謎解きは明快で説得力がありました」
「そうだね、込み入った推理を弄するよりわかりやすい方がいい。ところでぼくはこの小説で学びというのがあると思うのだが、君はどうかな」
「とにかく昌子は真面目に生きて来て、気難しい夫に寄り添って我慢強く生きて来ました。何ら人から攻撃されるようなことをしていない若い女性です。彼女の家族も同様です。それが突然暗雲がやって来て彼女を取り巻き、夫だけでなく妹までも濡れ衣を着せられてしまいます。そういう時に希望を失わず、出来るだけの社会的責任を果たしていると、事件の手掛かりが掴めしかも一緒に解明してくれる協力者が出て来る。そうして悪は滅び、自分の人生にも曙光が射して来る。ぼくはこういう何かほっこりした感じで終わる小説は大好きです」
「最後のところでどちらかが告白しているわけではないから、昌子と吉木が結ばれたかは読者の想像次第だ。君の好きな、ディケンズの『大いなる遺産』の最後のところと同じと言えるんじゃないかな」
「ピップとエステラですね。そうですね、そう思います」